|
|
|
|
|
|
|
|
![]() ![]() ![]() |
Born March 24, 1890:Baden bei Wien, Austria-Hungary Died January 8, 1976:New York City, New York, U.S. 1904年、フィンセントはトーンキュンストラー管弦楽団の首席トランペット奏者であったゲオルグ・ステルヴァーゲン( Georg Stellwagen )の生徒となります。彼は昼食代を節約し、自分のトランペットを買う資金を貯め続けました。そして、遂に15歳の時に中古のロータリートランペットを購入します。彼のトランペットの腕は素晴らしかったのですが、再婚した母の新しい継父は「音楽家とは、楽しい時間を過ごしたいだけの怠け者」と理解を示しませんでした。 しかし働きながらも楽器の演奏は続けていたようです。彼は昼間に仕事をし、夜は週に3日~4日社交場やクラブで演奏する日々を送りました。そして2度目の兵役の時には海軍音楽隊に所属する事になったのです。フィンセントの評判はイギリスの歌劇場の演出家の耳に入り、ある日「費用を出してやるからヨーロッパ演奏旅行をしないか?」と持ち掛けられます。彼はすぐに会社を辞め、演奏旅行に行く事にしました。彼は芸名ヴィンセント・バック( Vincent Bach )の名で、Alexander社のコルネットと共にヨーロッパの演奏巡業に旅立ちました。オーストリア、ドイツ、イギリス、デンマーク、スウェーデン、ロシア、ポーランドを巡り、彼の演奏は好評を博したようです。 |
![]() ![]() ![]() |
1915年の夏、フィンセントはサンフランシスコ万国博覧会でトランペット奏者として出演しました。1916年にはメトロポリタン歌劇場との永久契約をオファーされ、再びニューヨークに移ります。メトロポリタン歌劇場では当時世界最先端と言われたディアギレフ( Sergei Diaghilev )のロシアバレエ団『リュス』( Ballets russes )の第一トランペット奏者として演奏し、その後この名門バレエ団とともにアメリカの主要都市をツアーしました。この時彼はストラヴィンスキーのバレエ「ペトルーシュカ」、「火の鳥」のアメリカ初演をしています。 1909年にパリのシャトレ座で結成されたバレエ団。バレエを時代の最先端をいく芸術ジャンルとし、総合芸術としてのバレエを確立させた。このバレエ団にバレエ音楽を作曲した作曲家としてドビュッシー、ラヴェル、サティ、プーランク、ミヨーらが挙げられ、ストラヴィンスキーはリュスのために書いた『火の鳥』『ペトルーシュカ』、『春の祭典』によって世界的名声を得ている。現在において、モダンバレエにおける基礎を築いたバレエ団と認知されている。 友人のトランペット奏者はフィンセントのマウスピースを複製していた時、元の内径よりわずかに大きな内径の方が、自分は上手く演奏できることに気付きました。あろうことか友人は、フィンセントを喜ばせるために元のマウスピースにも手を加え、内径を削ってわずかに大きくしてしまったのです。戻ってきたマウスピースでは、フィンセントは上手く演奏することができません。自分にとってベストなマウスピースを再び探すため、マウスピースを大量に購入し、試しては捨てる日々が続きました。そしてマウスピースを頻繁に変えたために、彼はアンブシュアを崩し、上手く演奏できなくなってしまったのです。 従軍中、彼は自分でマウスピースを復元してはどうかと考え始めます。彼は音楽家の実際のニーズに関する知識が乏しいマウスピース職人の製品よりも、演奏者である自分がマウスピースを作る方が理にかなっていると考えたのです。1918年2月27日、フィンセントは除隊となりニューヨークに戻ることとなりました。 当初、フィンセントの目的は自分にとってベストなカップ形状を作ることでした。しかしカップ形状を完全に復元できても、次の壁に直面します。それはスロートとバックボアの形状でした。高音は鮮やかで素晴らしくても低音は鈍い、低音が豊かでも高音は甲高く出しにくい。これらの問題を解決するため、更に試作と実験を繰り返されました。そして、遂にフィンセントは自分にとってベストなマウスピースの製作に成功したのです。 1918年5月、フィンセントは300ドルで中古の旋盤を購入しました。ただしこの時点ではマウスピースの製造をビジネスとして始めるつもりはなかったようです。彼の目的はマウスピースを12回ほど複製し、将来マウスピースに事故が起こった時のためにスペアを所有することでした。12個のマウスピースを完成させた後、彼は機械を鉄工商に売却し、修理に必要ないくつかの工具だけを残して小さな店を閉め、マウスピースの製造をやめました。 トランペット奏者達はすぐに彼のもとに集まり、彼のマウスピースを試させてほしいと交渉しました。そして試用した後に彼のマウスピースに高額の値段を付けました。当時の一般的なマウスピースの価格は1ドル50セントです。しかしフィンセントに提示された価格は20ドルにも達しました。彼はスペアのために作り置きしていたマウスピースを手放すことには気が進まなかったのですが、質の悪いマウスピースで苦労しているトランペット奏者に深い同情を覚え、自身のスペアマウスピースを売却しました。最終的にマウスピースは3つだけ残り、フィンセントは「最後の3つは絶対に手放さない!」と心に決めました。 「フィンセントはビジネスのチャンスを逃している!」 「お前のマウスピースに50ドル喜んで支払う人がいるなら、そのマウスピースに対する評判が広まっているに違いない!」 「需要があるところには、金儲けのチャンスがある!」 その瞬間、フィンセントの野心の火が灯されました。 軍隊を退役したばかりで、ほとんどお金が無かったフィンセントにとって、新たに事業を起こす事は難しかったのですが、ビールが「これは挑戦する価値がある。」と主張したことで、彼はマウスピース製作者として創業する決断をしたのです。 フィンセントは旋盤とビジネスのための部屋を急いで準備しようと奔走します。彼はローンで旋盤を買い、家賃が安くゴミが床一面に散らかったままの古いジャンクショップを借りることにしました。契約の日、13時にフィンセントは賃貸業者に東85番街204番地の部屋を借りると伝えて少額の保証金を支払い、4月15日までに部屋を自分で片付けると家主に約束します。15分後、フィンセントは機械販売会社に行き、旋盤の注文書に署名しました。そして2時までにリヴォリ劇場へ向かい、オーケストラピットにあるトランペットの席に座りました。 工房が赤字の状態は2年近く続きます。またボストン、ニューヨーク、従軍、マウスピースの実験、創業と奏者の兼業と自分の事を追いかけすぎたためか、フィンセントと妻との関係は冷え切り、1920年9月にマッジ・カミンズとの離婚が成立します。フィンセントは工房で仕事を続けながら劇場で1日3公演をこなし、得た収入で家賃、広告費、新たな工具の購入等を行う毎日でした。特に均一なサイズのマウスピースを製造できるよう、成形ツールの改良に多くの時間を費やしました。また個々の奏者の要望に応えられるように、マウスピースの実験と試作も続けます。要望の多いマウスピースには番号が付けられ、演奏者がいつでもお気に入りのマウスピースの複製を入手できるようにしました。 最初の1年間は経費の半分以下しか回収ができませんでした。事業を諦めかけた彼は、最後の望みとして銀行口座に残っていた50ドルを全て引き出し、ニュージャージー州とペンシルバニア州にマウスピース販売のための営業に出かけます。この決断が功を奏し、3日間で500ドル相当のマウスピースの注文を受けることに成功しました。この注文の品を納入すると、フィンセントはすぐに別の場所へ営業に出発しました。 1920年代、多くの著名なトランペット奏者がフィンセントのマウスピースを使用しており、その中にはメトロポリタン歌劇場管弦楽団、ボストン交響楽団、ニュー・フィルハーモニックなどのトップオーケストラのトランペット奏者も含まれていました。 数値的に「均一な間隔」の法則性はないものの、カップサイズやリムサイズに理論的に番号や記号をつけた「マウスピースのシリーズ化」は、多くの顧客に対しマウスピース選びを明快なものにしました。数値が大きくなればリム内径が小さくなる・アルファベットが前になればカップは深くなる、という明快な考えは、現在のBachマウスピースに対する多くの人の認識であり、概ねそのイメージでマウスピース選びをしても大きな間違いをすることはないのです。 |
![]() ![]() ![]() |
1925年当時の標準ラインナップ Stradivarius B管トランペット C管トランペット B管コルネット Apollo C/B/A管トランペット アイーダトランペット(H管、B管、As管) B管コルネット G/F管ビューグル B管ヒューグル Mercury B管トランペット Rotary B管ロータリートランペット チューニング管 A管(半音下げ)に切り替え可能なロータリー付きチューニング管 1919年、ジョルジュ・マジェ( Georges Mager )というフランス系アメリカ人がボストン交響楽団の首席奏者になり、フランス製のC管トランペットを使用し始めました。 数年のうちにトランペットパート全体がフランス人となり、1927年~1928年頃にボストン交響楽団はアメリカで唯一のC管トランペットを使用するオーケストラとなりました。 彼らはVincent Bach社のC管を使用してはいませんでしたが、首席奏者のジョルジュ・マジェは1927年からBachのC管トランペットを仲介販売するようになりました。 この影響で、1940年代までにボストン交響楽団、ニューヨークフィル、フィラデルフィア管弦楽団、デトロイト交響楽団、シンナシティ交響楽団、ロサンゼルス交響楽団の奏者達が BachのC管トランペットを購入したり、試しに使用したりした記録が残っています。 しかしC管トランペットはメイン楽器として普及するには至らず、多くは現場で「不合格」となってマジェの元に返ってきました。 またマジェが所属するボストン交響楽団トランペットセクションも、1940年の段階でBachのトランペットをメインで使用している奏者はいなかったようです。 最初期のC管Stradivariusトランペットは細いボアで設計され、B管よりも細くて小さなベルが取り付けられていました。 しかし改良を重ねていくうちに、より大きく豊かな音を求めて大きなボアと太いベルの楽器に変わっていきます。 またベルは長くなり、リードパイプが短くなるデザインになっていきました。 フランス系アメリカ人。1919年から1950年までボストン交響楽団の首席トランペット奏者を務める。 フランス人だった彼はフランスオーケストラの伝統を守り、C管トランペットを使用した。 当初はフランスのBesson等を使用していたが、1943年よりBachのC管(209ベル、7パイプ、MLボア)を使い始める。 Jean Baptiste Arbanの孫弟子にして、Adolph Hersethの師。 1943年、ボストン交響楽団のジョルジュ・マジェは、フィンセントに自身のBach社のC管の改造を依頼しました。 改造が終わると、マジェはBachのC管をボストン交響楽団で使い始めたのです。 この戦時中、後にBach社のC管トランペットをアメリカや世界中に広めることとなる人物がマジェと出会います。 当時マジェは海軍の楽団員だった若きアドルフ・ハーセス( Adolph Herseth )にトランペットのレッスンを行っていました。 このことがきっかけで、ハーセスもケノンのC管トランペットを使用し始めたようです。 1947年、フィンセントは試行錯誤の末にC管用229ベルを開発します。 この翌年、マジェのレッスンを受けていたハーセスはシカゴ交響楽団の首席トランペット奏者に合格し、ボストンからシカゴへ向かう事になりました。 フィンセントとハーセスがいつどこで知り合ったかは定かではありませんが、ハーセスがボストンを発つ直前、 フィンセントはハーセスに自社のC管(229ベル・7パイプ・Lボア・B管用のスライド付)を届け、シカゴ交響楽団での彼の活躍に託しました。 1921年生まれ。ボストン交響楽団首席奏者だったGeorges Magerに師事し、1948年にシカゴ交響楽団首席トランペット奏者となる。 以後2001年80歳で引退するまで53年間首席奏者に君臨した。 アメリカ中のオーケストラがBachのC管を使い始めたのは、彼の功績と言ってよいだろう。 また1960年代よりロータリートランペットを使用したことで、アメリカのプロオーケストラにロータリートランペットが広まっていった。 彼の使用したBachのC管(229ベル、25Hパイプ、Lボア)は、1970年よりConn-Selmerから再販される。 ブロンクス末期、フィンセントはB管用の25パイプを短く切ってC管用に改造し、C管版の25パイプを完成させます。 移転後のマウント・ヴァーノンの工場では、25パイプを使用したC管が生産の主流となりました。 またB管では明るい音の出る43ベルが人気となりました。 ハーセスがC管トランペットを持って入団したシカゴ交響楽団では、数年のうちにトランペット全員がC管を持つようになりました。 1955年春、フィンセントはシカゴ交響楽団にC管4本(229ベル、25パイプ、Lボア)を納入します。 この後、Bach社のC管トランペットはアメリカのオーケストラやその他の国のオーケストラ奏者にも徐々に広まっていきました。 ・C管の完成 1950年代半ば、フィンセントは自身のトランペットに「ドイツのロータリートランペットのような太くて暗い音」を求めるようになっていました。 1956年、B管用に65ベル、C管用に239ベルが新たに開発されます。 どちらも既存のベルに比べて暗く豊かな音色を放ち、 ドイツのロータリートランペットの音をピストントランペットで再現したような印象を与えました。 現在「標準モデル」として売られているLボア・239ベル・25CパイプのC管の完成です。 この楽器は1957年に量産が始まっており、 同時にこのベル設計の後、フィンセントは229ベルのC管の販売を中止しました。 (1970年代に229ベル・25HパイプとしてSelmerより再販される。) ・学生向けトランペット 1950年代後半、フィンセントはアメリカ国内で急速に成長していた学校バンドに目をつけ、 ミネルヴァ( Minerva )と呼ばれる学生向けの廉価版トランペットの実験と開発を行いました。 このミネルヴァは1958年に発売開始されています。 ・ロータリートランペット フィンセントがトランペット製作と販売を始めた1925年、 Bach社のカタログにはロータリートランペットが載っていました。 この楽器は製造コストを意識してピストントランペットからのパーツ流用が多く、 一般的なロータリートランペットのデザインとは大きく異なってました。 ロータリーの位置がピストントランペットと同じで、ベルもピストントランペットと同じものを使用していました。 ロータリートランペットは当初B管とC管で製作されていましたが、1927年頃には製造されなくなり、 その後戦後までBach社はロータリートランペットの製作を辞めていました。 マウント・ヴァーノン後期、フィンセントは再びロータリートランペットを再設計します。 デザインはヨーロッパのものと同じとなり、 ヴィンダボナの実験を通じてベルやリードパイプの試行錯誤が進められました。 そして1960年5月にB管、C管、D管の設計が完了し、最後の1年をかけてEs管の開発も進められます。 1961年5月、Es管の開発も完了し、Bach社はロータリートランペットを数十本製作したようです。 当時ピストントランペットのシリアル番号が20000番代の前半だったため、 これらの楽器には50000万番代のシリアル番号が割り当てられました。 これらのロータリートランペットはヨーロッパのデザインと同じように、 ピストントランペットのボアに比べてかなり細いものが用いられ、 チューニングクルークを通じてボア径が拡大されるように設計されています。 またロータリートランペットは管の全長に関わらずリードパイプが短いため、 どの楽器にもロータリートランペット用の43パイプが用いられました。 B管とC管にはヴィンダボナと同じ65、72、238ベルが割り当てられ、C管には3種類のベルの厚みが選択可能でした。 またD管には1958年に製作した245ベルが、Es管にはEsコルネット用の322ベルが採用されています。 しかし、これらのロータリートランペットがカタログに載ることはありませんでした。 ・ヴィンダボナ フィンセントはヴィンダボナ( Vindabona )と呼ばれるデュアルボアの楽器の開発も進めました。 この楽器はヨーロッパのロータリートランペットのような音色を目指して開発され、 チューニング管の入り口と出口で異なるボアを持つ楽器です。 フィンセントはドイツのロータリートランペットのベル(72、65) と フランス式バルブを組み合わせるというコンセプトを導入し、 アメリカ独自のトランペットの音を生み出しました。 チューニング管の入り口ではSボア、出口ではMLボアのMLVボアと呼ばれるデザインが新たに考案されました。 このアイデアは戦時中のジョルジュ・マジェのC管改造から構想を得たようです。 新たに43番のリードパイプが考案され、ヴィンダボナモデルのB管とC管に用いられました。 またB管では72ベル、C管では238ベル、D管では244ベル(標準は236ベル)が割り当てられています。 ヴィンダボナモデルは1961年に発売され、フィンセントが考案した最後の商品となりました。 43パイプと72ベルはフィンセントが設計した最後のパーツです。 1961年当時のStradivarius標準ラインナップ B管 Standard:ML 37bell 25pipe Vindabona:MLV 72bell 43pipe Standard:L 25bell 25pipe Standard:M 38bell 25pipe Bell Option:43bell / 65bell / 72bell C管 Standard:L 239bell 25pipe Vindabona:MLV 238bell 43pipe Standard:ML 239bell 25pipe Standard:M 236bell 7pipe D管 Standard:M 236bell 7pipe Vindabona:MLV 244bell 7pipe Es管 Vindabona ML:11.00mm bore Standard M:10.19mm bore F管 10.19mm bore G管 10.19mm bore B管ピッコロトランペット 10.19mm bore B管コルネット Bore Option:XL、L、ML、M 124mm bell C管コルネット L bore 124mm bell Es管コルネット 11.00mm bore 116mm bell フリューゲルホルン Standard:ML 145mm bell ソプラノEs管 コントラルトEs管 アイーダトランペット L、ML コントラルトトランペット Es管、F管 テナートランペット B管、C管 コンサルタントとなった彼がまず着手したのは、特注マウスピース形状の再整理とシリーズ化でした。 それまで特注対応でしか作らなかったマウスピース品番の形状を一つに定め、マスター形状を確定したのです。 それに伴い、マウスピース品番を再整理して大きい順・深い順から数字とアルファベットで並べました。 また1963年12月から約1年かけ、楽器の全長とチューニング管の抜きしろの再設計を行いました。 この時期のBachトランペットはチューニング管を1インチ抜いていました。 これらを廃止し、楽器全体の音程のコントロール性を改善する為に1/2インチ抜けばピッチが合うように変更しました。 1964年12月に誕生したこのモデルは180と呼ばれ、現在のBachトランペットの主力モデルとなっています。 一方でSelmerに会社が売却されたことで、終わってしまった事業もありました。 学生向けモデルとして販売されていたミネルヴァは1961年に発売中止となり、その後Selmerの技術者達によるTRシリーズが登場します。 |
![]() ![]() ![]() |
1970年、Selmerは同じエルクハートの工業地区インダストリアルパークウェイ600番にあるC.G.Connのトランペット工場を購入しました。 そして1974年までにBachトランペットの全生産を大規模なConnの工場に移したのです。 Bachの残した図面を基に、トランペットの大量生産が始まります。 現在に続くインディアナ州エルクハートでのBachトランペット生産の開始でもありました。 生産量は年間7000本から8000本に増えました。 創業から1945年までに生産したトランペットが6000本だった事を考えると、この数がいかに多かったかがわかるでしょう。 この後、1970年代後半には生産量が年10000本を超え、90年代には15000本に到達する勢いとなります。 |
|
|
1918 |
Brand names: Vincent Bach 11 E. 14th Streetのセルマーミュージックストアの旋盤を借り、マウスピース製造を開始。マウスピース製作の実験を開始する。 |
|
|
1918 - 1919 |
Brand names: Vincent Bach 1918年5月、300ドルで中古の旋盤を買い、自身のためのマウスピースを複製製作する。12個の複製を作り、旋盤を売却。作品が評判になり、マウスピースを欲しがる人が現れる。 |
|
|
1919 - 1922 |
Brand names: Vincent Bach 1919年4月に創業。300ドルの足踏み式旋盤を購入し、204 E. 85th Streetに工房を移転。 |
|
|
1922 - 1924 |
Brand names: Vincent Bach 会社を法人化する。10人の従業員を雇い、241 E. 41st Streetに工場を移転。マウスピースの生産をしながら、フレンチ・ベッソンのデザインをもとにトランペットの開発を行う。 |
|
|
1925 - 1928 |
Serial Numbers: 2 - 900 Brand names: Stradivarius, Apollo, Mercury フレンチ・ベッソンのデザインをもとに、1924年末にStradivariusのブランドでトランペット生産を開始。1928年にトロンボーンの生産を開始。New York Bach初期のシリアルナンバー3桁のモデル。 特徴 ・ベルの彫刻に「Faciebat Anno 製造年」が記載。 ・シリアル番号3桁。 |
|
|
1928 - 1945 |
Serial Numbers: 1,000 - 6,000 Brand names: Stradivarius, Apollo, Mercury, Mercedes 1928年10月、ブロンクス621 E. 216th Streetに工場を開設。新たにフリューゲルホルン、トロンボーン (テナーとバスの両方) の製造を開始。顧客からオーダーメイドで注文を受け、ボアサイズ、ベル、リードパイプ、バルブ等を組み合わせて製作。 特徴 ・ベルの刻印は「Stradivarius Model(ベル番号))」、手彫り「Vincent Bach」のサイン、「CORPORATION NEW YORK U.S.A.」又は「CORPORATION NEW YORK.67 U.S.A.」。 ・ベルの彫刻から「Faciebat Anno」を削除、「Model」の後にベルのモデル番号とボアサイズの数字を刻印し始める。 ・ベルは顧客の希望により1ピース製法と、2ピース製法の両方。 ・ベル巻き返しはフレンチビ-ド。 ・支柱は1本。 ・バルブケーシングは上部が洋白、下部が真鍮の2ピ-ス構造。 ・2番バルブケーシングの左手側洋白部分に「V.BACH NEWYORK U.S.A.」と刻印。 ・3番管のストッパーは現在の物と逆向きが多い。 ・4,000番頃(1938年~1939年頃)までのボアサイズ・シリアル番号は第2バルブ左手側に刻印。 ・4,000番頃(1938年~1939年頃)からはボアサイズ・シリアル番号は第2バルブ右手側に刻印。 1933年に「タイプE」バルブの生産が大多数となる。チューニングクルークのU字の幅が広くなり、ベッソンのデザインから脱却していく。7ベル、7パイプのLボアのNew York Bach全盛期。New York Bachと言えばBronx製4桁番台が一般的。 |
|
|
1945 - 1953 |
Serial Numbers: 6,000 - 12,614 Brand names: Stradivarius, Apollo, Mercury, Mercedes 第二次世界大戦後、人手と材料不足で一時的に生産が落ちる。チューニングクルークのU字の幅が更に広くなる。また2本支柱の楽器も作られ始める。 |
|
|
1953 - 1956 Early Mt.Vernon |
Serial Numbers: 12,615 - 16,000 Brand names: Stradivarius, Mercury, Minerva, Mercedes ニューヨーク市から郊外のマウント・ヴァーノンの50 South MacQuesten Parkwayへ移転。全手作業にして現在のStradivariusの原点となるデザイン。 特徴 ・ベル刻印は「Stradivarius Model(ベル番号)」、手彫りの「Vincent Bach」のサイン、「CORPORATION MT.VERNON NEW YORK U.S.A.」 ・ベル接合部はボトムシーム ・ベル製法は1ピース製法。 ・3番管ストッパーは逆向き。 ・巻き返しはフレンチビード。 ・2番バルブケーシング左手側にボアサイズとシリアル番号の刻印。「V.BACH Mt.VERNON NY.U.S.A.」と記されている。 ・15,000番頃(1956年頃)までのバルブケーシング刻印は、上側シリアル番号、下側ボアサイズ。 ・15,000番頃(1956年頃)からはバルブケーシング刻印は、下側シリアル番号、上側ボアサイズ。 |
|
|
1956 - 1961 |
Serial Numbers: 16,000 - 21,000 Brand names: Stradivarius, Mercury, Minerva, Mercedes チューニング管の上下の幅が拡大。それに伴い、トランペット全体の寸法が見直される。65ベル、239ベル、72ベルが登場する。 |
|
|
1961 - 1964 |
Serial Numbers: 21,000 - 29,999 Brand names: Stradivarius 1961年にセルマーに買収される。 特徴 ・ベル接合部分がサイドシーム。 ・ベル製法は1ピース製法。 |
|
|
1965 - 1974 |
Serial Numbers: 30,000 - 85,000 Brand names: Stradivarius, Bundy モデル180の製造が開始される。チューニング管を1インチ抜いていた設計を、1/2インチに改める(180 Series)。これにより、音のセンターが広くなり、息が入りやすくなったことで、多くの人が他の演奏者と音程を合わせ易くなった。工場がインディアナ州エルクハートに移設され、Bachの図面をもとにした大量生産が始まる。ヴィンセントが完全に引退するまでの時代。 特徴 ・67,000番頃(1971年~1972年頃)までのベル彫刻はVincent Bachのサインの下に「CORPORATION」と刻印。 ・68,000番頃(1971年~1972年頃)からはベル彫刻はVincent Bachのサインの下に「®」と刻印、Vincent Bach登録商標化が図られる。 ・ベルの厚みが0.020インチから0.025インチに改められ、それまでのベル(NY-Bach Standard)はライトウェイトベルと呼ばれるようになる。 ・ライトウェイトベルには「☆」の刻印が刻まれる。 ・ベル巻き返しのワイヤーがスチール製に変わる。 ・2番バルブケーシング右手側にボアの刻印。 |
|
|
1974 - 1981 |
Serial Numbers: 85,000 - 200,000 Brand names: Stradivarius ヴィンセント引退後のElkhart製Bach。Vincent Bachが亡くなった直後から、楽器の製造における行程の合理化が図られる。 特徴 ・140,000頃(1977年頃)からはバルブケーシングが真鍮1ピース構造に合理化。 |
|
|
1981 - 1991 |
Serial Numbers: 200,000 - 350,000 Brand names: Stradivarius 楽器の製造における行程の合理化が一層進む。 特徴 ・200,000番頃(1981年頃)より右手小指フィンガーフックの尾が無くなる。 ・バルブガイドが金属製から樹脂製に変わる。 ・ボアサイズ刻印の位置が、2番バルブケーシング左手側に機械で刻まれる。 |
|
|
1991 - 2004 |
Serial Numbers: 350,000 - 615,997 Brand names: Stradivarius 生産体制が完全に近代化。従業員の雇用数と保証費用が劇的に増加し、同時に売上は減少する。 特徴 ・340,000~350,000番頃よりシリアル番号が2番バルブケーシングの左手側に機械で刻印。 |
|
|
2004 - 2007 |
Serial Numbers: 615,998 - 646,012 Brand names: Stradivarius Conn-Selmer時代。「Vincent Bachトランペットはインディアナ州エルクハートで製造される」という常識が崩れる。 セルマーがスタンウェイピアノを中心とするUnited Music Instruments(UMI)の資本傘下に入り、同じくUMI資本傘下となったConnと合併し、社名がConn-Selmerとなった。エルクハートで別ブランドの楽器も製造する一方で、オハイオ州イーストレイクで新モデル「182 Stradivarius」の生産が開始される。 特徴 ・ベルの彫刻が全てレーザー刻印で自動化。 生産体制の変化 ・エルクハート工場で別ブランドの楽器も製造される。 ・新シリーズ182 Stradivarius Vincentが、KING やBengeを生産していたオハイオ州イーストレイクで製造開始。 ・初心者向けTRシリーズを中国や東南アジアでOEM製造開始。 ストライキ 2006年4月~2009年7月までストライキが起き、生産数が激減する。6~7本あったVincent Bach製造ラインのうち、1本を除く全てが閉鎖。閉鎖したのは職人が労働者として働く量産組み付けライン。生き残ったのは、社員でプロ対応の楽器・特注品製造をしていた1ラインのみ。 |
|
|
2007 - Now |
Serial Numbers: 646,013 - Brand names: Stradivarius, Artisan Collection 2007年、ストライキが続いているConn-Selmerは新たに「True BACH」というキャッチフレーズを掲げる。Bach没後30年を期に、Bachの残した図面をもとにトランペット製作全465工程の見直しが行われた。本来使われるべきでない工作機械が製造ラインにあり、Bach本人の設計からずれてしまっていた。 特徴 ・ベル根本のU字が昔の様にスクエアに戻った。 生産体制と新シリーズ 2009年7月新たな労働者を雇う形でストライキが終了、かつての労働者の1/3が職場に復帰する。復刻モデル含め、Vincent Bach本人の設計で製造する180シリーズに対し、現代の技術者で設計した190シリーズを新たに発表。 190 Series 2010年:Artisan Collection 190 B管、C管、D/Es管、Es管(Short L bore)、ピッコロトランペット 2013年:LR190B43 "The Big Copper" 2014年:LT1901B "Commercial" |
|