Leben und Geschichte von Vincent Bach
 
 Vincent Bachトランペットについての解説を、5つの記事に分けて書いています。こちらのページでは、Vincent Bachの生涯と歴史について解説しています。



1 : Vincent Bachのトランペット1
B管180MLを中心に
2 : Vincent Bachのトランペット2
様々なベル・リードパイプとBachが設計した特殊管
3 : Vincent Bachのマウスピース1
ナンバー表記と形状
4 : Vincent Bachのマウスピース2
Bachの意図と現代のズレ
5 : Vincent Bachの生涯と歴史










5 : Vincent Bach Geschichte




 クラシックからジャズまで、全てのジャンルでトランペットの代名詞と言われるVincent Bach(ヴィンセント・バック)。Vincent Bachとは、アメリカ合衆国インディアナ州エルクハートにあるConn-Selmer社の生産するトランペットのブランド名であり、同時にBachトランペットを作った人の名前でもあります。いったいどんな人だったのでしょうか?




生い立ち

 Vincent Bachの本名はVincenz Heinrich Schrottenbach (フィンセント・ハインリッヒ・シュローテンバッハ)です。彼は1890年3月24日にオーストリア=ハンガリー帝国(現:オーストリア)ウィーンの南25kmにあるバーデンに生まれました。彼の両親は歌や演劇を娯楽として楽しむ文化資本・教養があったようです。


Vincenz Heinrich Schrottenbach
Born   March 24, 1890:Baden bei Wien, Austria-Hungary
Died   January 8, 1976:New York City, New York, U.S.
1912年撮影、当時22歳


 現在バーデンはオーストリアのニーダーエスターライヒ州バーデン郡に属する、人口2万5千人位の温泉地です。フィンセントは6歳からヴァイオリンを始めましたが、長続きせず辞めてしまいます。7歳のとき、フィンセントはEs管ナチュラルトランペットを手に入れました。また小さい頃にウィーンのトーンキュンストラー管弦楽団( Tonkünstler-Orchester Niederösterreich )を聴き、トランペットの音に興味を持ったようです。しかし音楽に理解のあった父親が1897年に自転車事故で亡くなってしまいます。

 1904年、フィンセントはトーンキュンストラー管弦楽団の首席トランペット奏者であったゲオルグ・ステルヴァーゲン( Georg Stellwagen )の生徒となります。彼は昼食代を節約し、自分のトランペットを買う資金を貯め続けました。そして、遂に15歳の時に中古のロータリートランペットを購入します。彼のトランペットの腕は素晴らしかったのですが、再婚した母の新しい継父は「音楽家とは、楽しい時間を過ごしたいだけの怠け者」と理解を示しませんでした。




機械工学を学び、演奏者へ

 フィンセントは15歳でウィーン・ノイシュタット工業大学に進学し、機械工学を学びます。1910年7月に大学を卒業すると、オーストリア=ハンガリー帝国海軍へ義務兵役が待っていました。1911年、兵役を終えたフィンセントはエレベーターの会社に雇われ、毎日リフト開発や修理をする毎日となったのでした。

 しかし働きながらも楽器の演奏は続けていたようです。彼は昼間に仕事をし、夜は週に3日~4日社交場やクラブで演奏する日々を送りました。そして2度目の兵役の時には海軍音楽隊に所属する事になったのです。フィンセントの評判はイギリスの歌劇場の演出家の耳に入り、ある日「費用を出してやるからヨーロッパ演奏旅行をしないか?」と持ち掛けられます。彼はすぐに会社を辞め、演奏旅行に行く事にしました。彼は芸名ヴィンセント・バック( Vincent Bach )の名で、Alexander社のコルネットと共にヨーロッパの演奏巡業に旅立ちました。オーストリア、ドイツ、イギリス、デンマーク、スウェーデン、ロシア、ポーランドを巡り、彼の演奏は好評を博したようです。




第一次世界大戦とアメリカへ亡命

 フィンセントがイギリス滞在中だった1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発します。第一次世界大戦の発端はオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が、6月28日にセルビア人の青年に暗殺された事で始まりました。ヨーロッパはオーストリア=ハンガリー帝国を支持する国々と、セルビア王国を支持する国々に二分してしまったので、オーストリア人だったヴィンセントが敵対側のイギリスに滞在していた事は非常にまずい事態となりました。イギリスからの出国ができなくなり、敵国人として長期投獄される危険があったのです。逮捕を逃れる為、フィンセントはスウェーデン人のふりをして、ピーターソン ( Peterson ) の名で米国に亡命します。彼はBessonのコルネットとポケットに5ドルだけ持って、9月12日にリヴァプールからニューヨーク行きのフェリー『ルシタニア号( Lusitania )』に乗りこみました。





新天地アメリカ

 1914年9月18日、フィンセントはニューヨークの港に到着しました。アメリカに到着してすぐ、彼はトランペットの職を探します。最初はケンタッキー州のレキシントン通りにその年オープンしたばかりのローズシアター( Loew’s Theater )ソリストになりました。しかしこの劇場はバラエティシアターであり、彼が慣れていたクラシカルな演奏が求められている訳ではありませんでした。劇場のオーナーはフィンセントをショー中のBGM奏者から降ろし、観客が開演を待つ間に会場で聴くBGM奏者に変えました。この事に不満を感じたフィンセントはボストン交響楽団の指揮者カール・マック( Karl Muck )に手紙を書き、ボストン交響楽団のオーディションを受けることを決意します。



オーケストラの奏者へ

 ボストン交響楽団のオーディションに合格して首席トランペット奏者となったフィンセントはボストンに向かいます。ボストンでは同僚トランペット奏者グスタフ・ハイム( Gustav Heim )を通じてフランク・ホルトン社( Frank Holton Company )を紹介され、ローピッチ専用のホルトン製新トランペットを使うようになりました。2月9日にはマッジ・カミンズ( Madge Cummins )と結婚し、アメリカでの生活にも明るい兆しが見えてきました。

 1915年の夏、フィンセントはサンフランシスコ万国博覧会でトランペット奏者として出演しました。1916年にはメトロポリタン歌劇場との永久契約をオファーされ、再びニューヨークに移ります。メトロポリタン歌劇場では当時世界最先端と言われたディアギレフ( Sergei Diaghilev )のロシアバレエ団『リュス』( Ballets russes )の第一トランペット奏者として演奏し、その後この名門バレエ団とともにアメリカの主要都市をツアーしました。この時彼はストラヴィンスキーのバレエ「ペトルーシュカ」、「火の鳥」のアメリカ初演をしています。

※ バレエ・リュス
 1909年にパリのシャトレ座で結成されたバレエ団。バレエを時代の最先端をいく芸術ジャンルとし、総合芸術としてのバレエを確立させた。このバレエ団にバレエ音楽を作曲した作曲家としてドビュッシー、ラヴェル、サティ、プーランク、ミヨーらが挙げられ、ストラヴィンスキーはリュスのために書いた『火の鳥』『ペトルーシュカ』、『春の祭典』によって世界的名声を得ている。現在において、モダンバレエにおける基礎を築いたバレエ団と認知されている。




マウスピースをダメにされる

 フィンセントはボストン交響楽団で演奏していた時、偶然自分にぴったりのマウスピースを手に入れました。メトロポリタン歌劇場に入り、バレエ・リュスとピッツバーグでのツアーをしている時、「そのマウスピースを複製させてほしい」と言う友人にマウスピースを貸してしまいます。この事が後の様々な出来事の引き金になっていくのです。

 友人のトランペット奏者はフィンセントのマウスピースを複製していた時、元の内径よりわずかに大きな内径の方が、自分は上手く演奏できることに気付きました。あろうことか友人は、フィンセントを喜ばせるために元のマウスピースにも手を加え、内径を削ってわずかに大きくしてしまったのです。戻ってきたマウスピースでは、フィンセントは上手く演奏することができません。自分にとってベストなマウスピースを再び探すため、マウスピースを大量に購入し、試しては捨てる日々が続きました。そしてマウスピースを頻繁に変えたために、彼はアンブシュアを崩し、上手く演奏できなくなってしまったのです。




従軍中の実験

 1917年、アメリカも第一次世界大戦に参戦する事になり、フィンセントは徴兵され第306野戦連隊に配属されます。幸運なことに彼は軍楽隊のバンドマスターとして採用されたため、しばらく楽器に触れず唇を休ませる機会が与えられました。更に教官として新兵に金管楽器を教えることにもなりました。エンジニアとしての経験があったフィンセントは、新兵たちが各個人に適したマウスピースを使えば、演奏がより簡単になるだろうと考えます。マウスピースを自分で改造してみるという実験への好奇心が湧き、彼は行動に移します。従軍中の12ヶ月の実験の間に、彼はカップの直径と深さやリムの形状の関係を発見しました。

 従軍中、彼は自分でマウスピースを復元してはどうかと考え始めます。彼は音楽家の実際のニーズに関する知識が乏しいマウスピース職人の製品よりも、演奏者である自分がマウスピースを作る方が理にかなっていると考えたのです。1918年2月27日、フィンセントは除隊となりニューヨークに戻ることとなりました。




マウスピースの複製

 ニューヨークに戻ったフィンセントは、生活のために再び劇場で楽器を演奏する職を再開しました。更にマウスピースを復元するための準備を始めました。彼は旋盤の使用許可を得るため、東14番街11番地にあるセルマー( Selmer )を訪ねます。そして、当時セルマー社のマネージャーであり、後に社長となったジョージ・バンディ( George M Bundy )に会社の旋盤を使わせてほしいと持ちかけました。この交渉は成功します。彼はわずかな費用で旋盤を1台使用する許可を得ると、セルマービルの最上階に小さな部屋を借りてマウスピースの復元製作を始めました。

 当初、フィンセントの目的は自分にとってベストなカップ形状を作ることでした。しかしカップ形状を完全に復元できても、次の壁に直面します。それはスロートとバックボアの形状でした。高音は鮮やかで素晴らしくても低音は鈍い、低音が豊かでも高音は甲高く出しにくい。これらの問題を解決するため、更に試作と実験を繰り返されました。そして、遂にフィンセントは自分にとってベストなマウスピースの製作に成功したのです。

 1918年5月、フィンセントは300ドルで中古の旋盤を購入しました。ただしこの時点ではマウスピースの製造をビジネスとして始めるつもりはなかったようです。彼の目的はマウスピースを12回ほど複製し、将来マウスピースに事故が起こった時のためにスペアを所有することでした。12個のマウスピースを完成させた後、彼は機械を鉄工商に売却し、修理に必要ないくつかの工具だけを残して小さな店を閉め、マウスピースの製造をやめました。




マウスピースを譲る

 当時、フィンセントはニューヨークの主要なオーケストラで定期的に演奏しており、トランペットソロを演奏するように頻繁に指名されていました。多くの奏者達は、彼の音の輝きと美しさ、そして力を抜いて演奏していることに注目することになります。噂はすぐに広まりました。「フィンセントが素晴らしいマウスピースを完成させたらしい!」

 トランペット奏者達はすぐに彼のもとに集まり、彼のマウスピースを試させてほしいと交渉しました。そして試用した後に彼のマウスピースに高額の値段を付けました。当時の一般的なマウスピースの価格は1ドル50セントです。しかしフィンセントに提示された価格は20ドルにも達しました。彼はスペアのために作り置きしていたマウスピースを手放すことには気が進まなかったのですが、質の悪いマウスピースで苦労しているトランペット奏者に深い同情を覚え、自身のスペアマウスピースを売却しました。最終的にマウスピースは3つだけ残り、フィンセントは「最後の3つは絶対に手放さない!」と心に決めました。




創業の決断

 1919年4月、フィンセントはクラリネット奏者で当時セルマーの広告ライターだったビール( M.F. Beal )と会話をしていました。そこへトランペット奏者がやって来て、フィンセントに残っているマウスピースの1つを売ってほしいと交渉を始めました。フィンセントは、「もうこれ以上スペアマウスピースを譲りたくない。マウスピースを新たに作るつもりも無いし、売ってしまった旋盤をまた300ドルかけて購入するのは馬鹿げている。」と考え、断固として断りました。しかしトランペット奏者は食い下がり、譲渡価格を20ドル、30ドル、40ドルと引き上げていき、とうとう50ドルでも買うと言い出しました。すると様子を見ていたビールが間に入り、フィンセントを説得しはじめました。

「フィンセントはビジネスのチャンスを逃している!」
「お前のマウスピースに50ドル喜んで支払う人がいるなら、そのマウスピースに対する評判が広まっているに違いない!」
「需要があるところには、金儲けのチャンスがある!」


その瞬間、フィンセントの野心の火が灯されました。


 軍隊を退役したばかりで、ほとんどお金が無かったフィンセントにとって、新たに事業を起こす事は難しかったのですが、ビールが「これは挑戦する価値がある。」と主張したことで、彼はマウスピース製作者として創業する決断をしたのです。

 フィンセントは旋盤とビジネスのための部屋を急いで準備しようと奔走します。彼はローンで旋盤を買い、家賃が安くゴミが床一面に散らかったままの古いジャンクショップを借りることにしました。契約の日、13時にフィンセントは賃貸業者に東85番街204番地の部屋を借りると伝えて少額の保証金を支払い、4月15日までに部屋を自分で片付けると家主に約束します。15分後、フィンセントは機械販売会社に行き、旋盤の注文書に署名しました。そして2時までにリヴォリ劇場へ向かい、オーケストラピットにあるトランペットの席に座りました。




創業当初の苦労

 創業したフィンセントの最初の仕事は、広告用の文章とマウスピースを説明する文章を作ることでした。この広告が配布されると注文が少しずつ入り始めましたが、儲けを出すのは難しい状態でした。当時の設備は旋盤1台と原始的な工具が数個しかなく、生産量は1日あたりマウスピース1個程度と言われています。価格は4ドルだったので、1ヶ月分の家賃や旋盤のローンを支払うと赤字になってしまいます。彼は生活するためにリヴォリ劇場の第一トランペット奏者を続けました。

 工房が赤字の状態は2年近く続きます。またボストン、ニューヨーク、従軍、マウスピースの実験、創業と奏者の兼業と自分の事を追いかけすぎたためか、フィンセントと妻との関係は冷え切り、1920年9月にマッジ・カミンズとの離婚が成立します。フィンセントは工房で仕事を続けながら劇場で1日3公演をこなし、得た収入で家賃、広告費、新たな工具の購入等を行う毎日でした。特に均一なサイズのマウスピースを製造できるよう、成形ツールの改良に多くの時間を費やしました。また個々の奏者の要望に応えられるように、マウスピースの実験と試作も続けます。要望の多いマウスピースには番号が付けられ、演奏者がいつでもお気に入りのマウスピースの複製を入手できるようにしました。

 最初の1年間は経費の半分以下しか回収ができませんでした。事業を諦めかけた彼は、最後の望みとして銀行口座に残っていた50ドルを全て引き出し、ニュージャージー州とペンシルバニア州にマウスピース販売のための営業に出かけます。この決断が功を奏し、3日間で500ドル相当のマウスピースの注文を受けることに成功しました。この注文の品を納入すると、フィンセントはすぐに別の場所へ営業に出発しました。

 1920年代、多くの著名なトランペット奏者がフィンセントのマウスピースを使用しており、その中にはメトロポリタン歌劇場管弦楽団、ボストン交響楽団、ニュー・フィルハーモニックなどのトップオーケストラのトランペット奏者も含まれていました。




工房を法人化

 1922年になると、フィンセントは10人の従業員と共にVincent Bach Corporationを正式に設立し、工房をイースト41番街241番地にある建物に移転しました。好調となったマウスピースの生産を行うと共に、彼は自身のトランペットの開発も始めます。既に米国ではコーン( C.G.Conn )、ホルトン( Holton )、マーチン( Martin )、キング( KING )、ブッシャー( Buescher )など多くのメーカーがトランペットを販売していました。しかしオーケストラ現場で好まれていたのはフランスのベッソン( Besson )でした。クラシックオーケストラの奏者としての経験があったフィンセントは、1885年以降にフランスで制作されたベッソンの設計をもとにトランペットの開発を進めます。開発初期の頃、ドレスデンのHeckelからベルを購入し研究していたようです。



マウスピースの型番

 フィンセントは自分のためのマウスピースのコピーを売っただけでなく、良い奏者のマウスピースをコピーして手を加えたものも「○○モデル」等の名前で売っていました。これらを繰り返すうち、モデルの数がかなり多くなってしまいます。また顧客の要望を聞くうちに、オーダーの多い大きさや形状がある程度見えるようになっていきました。ある時彼はカップの直径ごとにこれらのモデルを再整理し、数字を割り当てることにしたのです。またカップの深さについても使用目的によってアルファベットを割り当てることにしました。

 数値的に「均一な間隔」の法則性はないものの、カップサイズやリムサイズに理論的に番号や記号をつけた「マウスピースのシリーズ化」は、多くの顧客に対しマウスピース選びを明快なものにしました。数値が大きくなればリム内径が小さくなる・アルファベットが前になればカップは深くなる、という明快な考えは、現在のBachマウスピースに対する多くの人の認識であり、概ねそのイメージでマウスピース選びをしても大きな間違いをすることはないのです。






トランペットの生産を開始

 1924年8月28日、フィンセントは「Model 1924」というトランペットのデザインを完成させました。 そして「Model 1924」を製造しながら、そのデザインを少しずつ改良していきました。 そして翌年1925年5月1日に製造したトランペットに「Stradivarius(ストラディヴァリウス)」というブランド名を名付け、 8月14日に商標出願をします。 1925年のカタログには、Stradivariusは1本125ドルであることが載っています。 他社のトランペットの価格はロウブラス(ノーラッカー)で55ドル~85ドルだったため、 強気の価格設定と言えるでしょう。 ストラディヴァリウス以外には、廉価版のマーキュリー( Mercury )が45ドル、中間価格帯のアポロ( Apollo )が75ドルでした。当時アメリカのオーケストラはB管で演奏していたため、生産の中心はB管でしたが、C管やD管トランペットも製作し、特殊管が年数回しか楽器が必要でないミュージシャンへ楽器のレンタルも開始しました。


1925年当時の標準ラインナップ

Stradivarius
B管トランペット
C管トランペット
B管コルネット


Apollo
C/B/A管トランペット
アイーダトランペット(H管、B管、As管)
B管コルネット
G/F管ビューグル
B管ヒューグル


Mercury
B管トランペット


Rotary
B管ロータリートランペット


チューニング管
A管(半音下げ)に切り替え可能なロータリー付きチューニング管






 1924年11月9日、フィンセントはエスター・ヘレン・スターブ( Esther Helen Staab )という女性と出会いました。短い婚約期間の後、1925年4月29日に二人は結婚します。この二度目の結婚はフィンセントにとって生涯の結婚生活のスタートとなりました。二人の間には娘のナンシー・バック( Nancy Bach )が1946年7月29日に誕生しています。



奏者を引退し、製作者へ

 Vincent Bach社は最初の6年間で1000本のトランペットを製作した後、1928年にはマンハッタン北部のブロンクスのイースト216番街621番地に工房を移し、トロンボーンの生産も開始します。フィンセントが最後にオーケストラのポジションに就いたのは1926年でした。新しい楽器のテストをするのが主な目的だったようで、オーケストラの仕事が忙しくなると退団してしまいます。その後は1927年から1929年の間に様々なラジオでソリストとして出演し、レコードもいくつか作成したようです。1928年5月、フィンセントはラジオ出演をすべてキャンセルしました。これ以降は単発の依頼があればラジオ出演する程度にとどめ、楽器製作と会社経営に没頭していきました。最後にラジオに出演したのは1929年と言われています。彼は演奏者を引退し、製作者としての新たなステージに進むことになりました。



世界恐慌とB管の基本仕様の確立

 Vincent Bach社のトランペットは、当初1885年以降にフランスで制作されたフレンチ・ベッソン( F.Besson )の設計をもとに作られ、 S・M・L3種類のボアサイズが選択できました。 創業当時のアメリカでは、コーン( C.G.Conn )、ホルトン( Frank Holton )、キング( KING、 H.N.White )などのメーカーが既にトランペットを生産していましたが、 オーケストラの現場ではベッソンのB管が圧倒的に人気でした。 彼はベッソンを模したトランペットで、オーケストラの市場を中心に攻めていく考えだったようです。 1927年頃になると、StradivariusトランペットのほとんどはLボアでの生産に変わっていきます。 楽器は主に注文生産で、ボアサイズ、ベル、リードパイプ、バルブ等を顧客の希望に応じて組み合わせて製作するというスタイルがとられました。 フィンセントはトランペットの可能性を探るため、ベルやリードパイプを多数試作しては楽器に取り付け、 様々な組み合わせで試行錯誤を行いました。 しかし1929年秋に、アメリカを発端に世界恐慌が始まりました。この不況により顧客からのオーダーは減り、 生産効率の向上と実験が遅れてしまいます。 1930年代半ば、5種類のボアサイズと様々なベル・リードパイプがオーダー可能な生産体制がやっと整いました。 最初のStradivariusから10年を経て、B管トランペットの基本仕様が完成したのです。



C管の開発

 フィンセントは創業から引退まで「アメリカのオーケストラで必要とされるC管トランペット」を追い求めました。 しかし、19世紀末から20世紀前半にピストン式のC管トランペットをオーケストラで使用していたのは世界中でフランスだけでした。 当時のC管は小さなボアとベルを持ち、細く甲高い音が鳴る楽器だったのです。 フィンセントがストラディヴァリウストランペットを完成させた1924年、 すでに他のメーカーがC管トランペットとC管コルネットを生産していました。 これらの楽器は特に教会で需要があり、ピアノ曲の移調を避けるために使用されていたようです。

 1919年、ジョルジュ・マジェ( Georges Mager )というフランス系アメリカ人がボストン交響楽団の首席奏者になり、フランス製のC管トランペットを使用し始めました。 数年のうちにトランペットパート全体がフランス人となり、1927年~1928年頃にボストン交響楽団はアメリカで唯一のC管トランペットを使用するオーケストラとなりました。 彼らはVincent Bach社のC管を使用してはいませんでしたが、首席奏者のジョルジュ・マジェは1927年からBachのC管トランペットを仲介販売するようになりました。 この影響で、1940年代までにボストン交響楽団、ニューヨークフィル、フィラデルフィア管弦楽団、デトロイト交響楽団、シンナシティ交響楽団、ロサンゼルス交響楽団の奏者達が BachのC管トランペットを購入したり、試しに使用したりした記録が残っています。 しかしC管トランペットはメイン楽器として普及するには至らず、多くは現場で「不合格」となってマジェの元に返ってきました。 またマジェが所属するボストン交響楽団トランペットセクションも、1940年の段階でBachのトランペットをメインで使用している奏者はいなかったようです。

 最初期のC管Stradivariusトランペットは細いボアで設計され、B管よりも細くて小さなベルが取り付けられていました。 しかし改良を重ねていくうちに、より大きく豊かな音を求めて大きなボアと太いベルの楽器に変わっていきます。 またベルは長くなり、リードパイプが短くなるデザインになっていきました。

※ Georges Mager
 フランス系アメリカ人。1919年から1950年までボストン交響楽団の首席トランペット奏者を務める。 フランス人だった彼はフランスオーケストラの伝統を守り、C管トランペットを使用した。 当初はフランスのBesson等を使用していたが、1943年よりBachのC管(209ベル、7パイプ、MLボア)を使い始める。 Jean Baptiste Arbanの孫弟子にして、Adolph Hersethの師。




第二次世界大戦中

 世界恐慌を脱出して数年、第二次世界大戦が開戦しました。 材料の入手が困難となり、工場の従業員は徴兵されたり軍需生産の仕事に就いたりする状況となりました。 トランペットの生産量は落ち、フィンセントの実験は滞ってしまいます。

 1943年、ボストン交響楽団のジョルジュ・マジェは、フィンセントに自身のBach社のC管の改造を依頼しました。 改造が終わると、マジェはBachのC管をボストン交響楽団で使い始めたのです。 この戦時中、後にBach社のC管トランペットをアメリカや世界中に広めることとなる人物がマジェと出会います。 当時マジェは海軍の楽団員だった若きアドルフ・ハーセス( Adolph Herseth )にトランペットのレッスンを行っていました。 このことがきっかけで、ハーセスもケノンのC管トランペットを使用し始めたようです。




第二次世界大戦後~ブロンクス後期

 第二次世界大戦直後はフィンセントにとって慌ただしい時期でした。 事業を一からやり直さなければならず、新しく雇った人の育成に追われました。 Bach社のトランペット生産量は戦前は年200本~300本程度でしたが、戦後は新たな人員を雇って年間700本以上となります。 この時期に「よりしっかりした音」を求めてB管の支柱は2本に変更され、 MLボア・37ベル・25パイプの生産が多くなります。 またC管の研究も再開されました。

 1947年、フィンセントは試行錯誤の末にC管用229ベルを開発します。 この翌年、マジェのレッスンを受けていたハーセスはシカゴ交響楽団の首席トランペット奏者に合格し、ボストンからシカゴへ向かう事になりました。 フィンセントとハーセスがいつどこで知り合ったかは定かではありませんが、ハーセスがボストンを発つ直前、 フィンセントはハーセスに自社のC管(229ベル・7パイプ・Lボア・B管用のスライド付)を届け、シカゴ交響楽団での彼の活躍に託しました。

※ Adolph Herseth
 1921年生まれ。ボストン交響楽団首席奏者だったGeorges Magerに師事し、1948年にシカゴ交響楽団首席トランペット奏者となる。 以後2001年80歳で引退するまで53年間首席奏者に君臨した。
 アメリカ中のオーケストラがBachのC管を使い始めたのは、彼の功績と言ってよいだろう。 また1960年代よりロータリートランペットを使用したことで、アメリカのプロオーケストラにロータリートランペットが広まっていった。 彼の使用したBachのC管(229ベル、25Hパイプ、Lボア)は、1970年よりConn-Selmerから再販される。




工場の移転、拡大~マウント・ヴァーノン前期

 1953年、25年間で10000本のトランペット・コルネット・トロンボーンを生産したブロンクスの工場は閉鎖され、 会社はニューヨーク州マウント・ヴァーノンのサウスマッケステンパークウェイ50番地に移転します。 この工場は当時のアメリカの中でも近代的で設備の整った工場でした。 生産のピーク時、ヴィンセント・バックには35人の従業員が働いていたようです。 生産量は年間1000本を超える年もありました。

 ブロンクス末期、フィンセントはB管用の25パイプを短く切ってC管用に改造し、C管版の25パイプを完成させます。 移転後のマウント・ヴァーノンの工場では、25パイプを使用したC管が生産の主流となりました。 またB管では明るい音の出る43ベルが人気となりました。

 ハーセスがC管トランペットを持って入団したシカゴ交響楽団では、数年のうちにトランペット全員がC管を持つようになりました。 1955年春、フィンセントはシカゴ交響楽団にC管4本(229ベル、25パイプ、Lボア)を納入します。 この後、Bach社のC管トランペットはアメリカのオーケストラやその他の国のオーケストラ奏者にも徐々に広まっていきました。




マウント・ヴァーノン後期と最後の開発

 1950年代後半から1961年にかけては様々な新商品が発表されました。 暗く豊かなドイツのロータリートランペットの音を意識したB管とC管のベルの開発、 学生向けトランペットの開発、 ロータリートランペットの開発、 ヴィンダボナと呼ばれるピストン式でありながらロータリートランペットの音を出せるトランペットの開発などが行われています。 またよりパワーを求めた結果、1956年にB管とC管のチューニング管の幅が広い設計に改められ、 ベル根本のカーブ半径やリードパイプの全長が変更されました。

・C管の完成

 1950年代半ば、フィンセントは自身のトランペットに「ドイツのロータリートランペットのような太くて暗い音」を求めるようになっていました。 1956年、B管用に65ベル、C管用に239ベルが新たに開発されます。 どちらも既存のベルに比べて暗く豊かな音色を放ち、 ドイツのロータリートランペットの音をピストントランペットで再現したような印象を与えました。 現在「標準モデル」として売られているLボア・239ベル・25CパイプのC管の完成です。 この楽器は1957年に量産が始まっており、 同時にこのベル設計の後、フィンセントは229ベルのC管の販売を中止しました。
(1970年代に229ベル・25HパイプとしてSelmerより再販される。)



・学生向けトランペット

 1950年代後半、フィンセントはアメリカ国内で急速に成長していた学校バンドに目をつけ、 ミネルヴァ( Minerva )と呼ばれる学生向けの廉価版トランペットの実験と開発を行いました。 このミネルヴァは1958年に発売開始されています。



・ロータリートランペット

 フィンセントがトランペット製作と販売を始めた1925年、 Bach社のカタログにはロータリートランペットが載っていました。 この楽器は製造コストを意識してピストントランペットからのパーツ流用が多く、 一般的なロータリートランペットのデザインとは大きく異なってました。 ロータリーの位置がピストントランペットと同じで、ベルもピストントランペットと同じものを使用していました。 ロータリートランペットは当初B管とC管で製作されていましたが、1927年頃には製造されなくなり、 その後戦後までBach社はロータリートランペットの製作を辞めていました。
 マウント・ヴァーノン後期、フィンセントは再びロータリートランペットを再設計します。 デザインはヨーロッパのものと同じとなり、 ヴィンダボナの実験を通じてベルやリードパイプの試行錯誤が進められました。 そして1960年5月にB管、C管、D管の設計が完了し、最後の1年をかけてEs管の開発も進められます。 1961年5月、Es管の開発も完了し、Bach社はロータリートランペットを数十本製作したようです。 当時ピストントランペットのシリアル番号が20000番代の前半だったため、 これらの楽器には50000万番代のシリアル番号が割り当てられました。

 これらのロータリートランペットはヨーロッパのデザインと同じように、 ピストントランペットのボアに比べてかなり細いものが用いられ、 チューニングクルークを通じてボア径が拡大されるように設計されています。 またロータリートランペットは管の全長に関わらずリードパイプが短いため、 どの楽器にもロータリートランペット用の43パイプが用いられました。 B管とC管にはヴィンダボナと同じ65、72、238ベルが割り当てられ、C管には3種類のベルの厚みが選択可能でした。 またD管には1958年に製作した245ベルが、Es管にはEsコルネット用の322ベルが採用されています。 しかし、これらのロータリートランペットがカタログに載ることはありませんでした。



・ヴィンダボナ

 フィンセントはヴィンダボナ( Vindabona )と呼ばれるデュアルボアの楽器の開発も進めました。 この楽器はヨーロッパのロータリートランペットのような音色を目指して開発され、 チューニング管の入り口と出口で異なるボアを持つ楽器です。 フィンセントはドイツのロータリートランペットのベル(72、65) と フランス式バルブを組み合わせるというコンセプトを導入し、 アメリカ独自のトランペットの音を生み出しました。

 チューニング管の入り口ではSボア、出口ではMLボアのMLVボアと呼ばれるデザインが新たに考案されました。 このアイデアは戦時中のジョルジュ・マジェのC管改造から構想を得たようです。 新たに43番のリードパイプが考案され、ヴィンダボナモデルのB管とC管に用いられました。 またB管では72ベル、C管では238ベル、D管では244ベル(標準は236ベル)が割り当てられています。 ヴィンダボナモデルは1961年に発売され、フィンセントが考案した最後の商品となりました。 43パイプと72ベルはフィンセントが設計した最後のパーツです。



1961年当時のStradivarius標準ラインナップ

B管
Standard:ML 37bell 25pipe
Vindabona:MLV 72bell 43pipe
Standard:L 25bell 25pipe
Standard:M 38bell 25pipe
Bell Option:43bell / 65bell / 72bell


C管
Standard:L 239bell 25pipe
Vindabona:MLV 238bell 43pipe
Standard:ML 239bell 25pipe
Standard:M 236bell 7pipe



D管
Standard:M 236bell 7pipe
Vindabona:MLV 244bell 7pipe



Es管
Vindabona ML:11.00mm bore
Standard M:10.19mm bore



F管
10.19mm bore



G管
10.19mm bore



B管ピッコロトランペット
10.19mm bore



B管コルネット
Bore Option:XL、L、ML、M
124mm bell



C管コルネット
L bore 124mm bell



Es管コルネット
11.00mm bore 116mm bell



フリューゲルホルン
Standard:ML 145mm bell
ソプラノEs管
コントラルトEs管



アイーダトランペット
L、ML



コントラルトトランペット
Es管、F管



テナートランペット
B管、C管







会社の売却と最後の設計

 老齢になったフィンセントは聴力の衰えや体力の限界を感じ、引退を考え始めます。1961年、彼は71歳で自身の会社「Vincent Bach Corporation」を売却する決断をしました。売却にあたっては13の会社からオファーがありましたが、最も高額なオファーを断り、自分の遺産を受け継いでくれること、楽器生産の伝承を担ってくれることを第一に売却先の企業を考えたようです。彼は1918年の創業時に自身に協力してくれた、木管楽器製造で有名なセルマー( Selmer )にトランペットの未来を託すことに決めました。1961年10月2日、Vincent Bach社はセルマーの傘下となりました。売却後のフィンセントは、コンサルタントとして会社に残ることになります。

 コンサルタントとなった彼がまず着手したのは、特注マウスピース形状の再整理とシリーズ化でした。 それまで特注対応でしか作らなかったマウスピース品番の形状を一つに定め、マスター形状を確定したのです。 それに伴い、マウスピース品番を再整理して大きい順・深い順から数字とアルファベットで並べました。 また1963年12月から約1年かけ、楽器の全長とチューニング管の抜きしろの再設計を行いました。 この時期のBachトランペットはチューニング管を1インチ抜いていました。 これらを廃止し、楽器全体の音程のコントロール性を改善する為に1/2インチ抜けばピッチが合うように変更しました。 1964年12月に誕生したこのモデルは180と呼ばれ、現在のBachトランペットの主力モデルとなっています。

 一方でSelmerに会社が売却されたことで、終わってしまった事業もありました。 学生向けモデルとして販売されていたミネルヴァは1961年に発売中止となり、その後Selmerの技術者達によるTRシリーズが登場します。


© Conn-Selmer, Inc.




インディアナ州への工場移転

 1965年1月、Selmerは破産した「Buescher Band Instrument Company」の建物を購入し、 Bachトランペットの生産拠点がニューヨーク州からインディアナ州エルクハート北メインストリート1119に移ります。 工場移転の際、ベルの金属の厚みが改められ、それまでノーマルウェイトとされた0.020インチを「ライトウェイト」とし、0.025インチが「標準」のベルに変更されました。

 1970年、Selmerは同じエルクハートの工業地区インダストリアルパークウェイ600番にあるC.G.Connのトランペット工場を購入しました。 そして1974年までにBachトランペットの全生産を大規模なConnの工場に移したのです。 Bachの残した図面を基に、トランペットの大量生産が始まります。 現在に続くインディアナ州エルクハートでのBachトランペット生産の開始でもありました。 生産量は年間7000本から8000本に増えました。 創業から1945年までに生産したトランペットが6000本だった事を考えると、この数がいかに多かったかがわかるでしょう。 この後、1970年代後半には生産量が年10000本を超え、90年代には15000本に到達する勢いとなります。




引退と死去

 フィンセントは妻の体調を考慮し、1966年以降は活動を縮小していきました。 1971年に会社から完全に引退すると、彼は古いマウント・ヴァーノンの施設で1974年まで一部の奏者の特注対応・楽器のカスタマイズを続けました。 1976年1月8日、フィンセントは妻と2人の孫を残してニューヨークでその生涯を終えます。 遺体はヴァルハラ市( Valhalla, NY )のケンジコ墓地( Kensico Cemetery )に埋葬されました。

※ 夫人のエスター・スターブ・バッハは、1982年6月21日にニューヨークで亡くなっています。








Bachトランペットの歴史



Begining

 
1918


Brand names: Vincent Bach
商品: -

 11 E. 14th Streetのセルマーミュージックストアの旋盤を借り、マウスピース製造を開始。マウスピース製作の実験を開始する。




New York Start-up

 
1918 - 1919


Brand names: Vincent Bach
商品:(マウスピース)

 1918年5月、300ドルで中古の旋盤を買い、自身のためのマウスピースを複製製作する。12個の複製を作り、旋盤を売却。作品が評判になり、マウスピースを欲しがる人が現れる。




 

 
1919 - 1922


Brand names: Vincent Bach
商品:マウスピース

 1919年4月に創業。300ドルの足踏み式旋盤を購入し、204 E. 85th Streetに工房を移転。




Starting a Business

 
1922 - 1924


Brand names: Vincent Bach
商品:マウスピース

 会社を法人化する。10人の従業員を雇い、241 E. 41st Streetに工場を移転。マウスピースの生産をしながら、フレンチ・ベッソンのデザインをもとにトランペットの開発を行う。




Early New York Bach

 
1925 - 1928


Serial Numbers: 2 - 900

Brand names: Stradivarius, Apollo, Mercury
商品:マウスピース、コルネット、トランペット

 フレンチ・ベッソンのデザインをもとに、1924年末にStradivariusのブランドでトランペット生産を開始。1928年にトロンボーンの生産を開始。New York Bach初期のシリアルナンバー3桁のモデル。

特徴
・ベルの彫刻に「Faciebat Anno 製造年」が記載。
・シリアル番号3桁。




New York Bach Bronx

 
1928 - 1945


Serial Numbers: 1,000 - 6,000

Brand names: Stradivarius, Apollo, Mercury, Mercedes
商品:マウスピース、コルネット、トランペット、フリューゲルホルン、トロンボーン

 1928年10月、ブロンクス621 E. 216th Streetに工場を開設。新たにフリューゲルホルン、トロンボーン (テナーとバスの両方) の製造を開始。顧客からオーダーメイドで注文を受け、ボアサイズ、ベル、リードパイプ、バルブ等を組み合わせて製作。

特徴
・ベルの刻印は「Stradivarius Model(ベル番号))」、手彫り「Vincent Bach」のサイン、「CORPORATION NEW YORK U.S.A.」又は「CORPORATION NEW YORK.67 U.S.A.」。
・ベルの彫刻から「Faciebat Anno」を削除、「Model」の後にベルのモデル番号とボアサイズの数字を刻印し始める。
・ベルは顧客の希望により1ピース製法と、2ピース製法の両方。
・ベル巻き返しはフレンチビ-ド。
・支柱は1本。
・バルブケーシングは上部が洋白、下部が真鍮の2ピ-ス構造。
・2番バルブケーシングの左手側洋白部分に「V.BACH NEWYORK U.S.A.」と刻印。
・3番管のストッパーは現在の物と逆向きが多い。
・4,000番頃(1938年~1939年頃)までのボアサイズ・シリアル番号は第2バルブ左手側に刻印。
・4,000番頃(1938年~1939年頃)からはボアサイズ・シリアル番号は第2バルブ右手側に刻印。

1933年に「タイプE」バルブの生産が大多数となる。チューニングクルークのU字の幅が広くなり、ベッソンのデザインから脱却していく。7ベル、7パイプのLボアのNew York Bach全盛期。New York Bachと言えばBronx製4桁番台が一般的。




Post WWII

 
1945 - 1953


Serial Numbers: 6,000 - 12,614

Brand names: Stradivarius, Apollo, Mercury, Mercedes
商品:マウスピース、コルネット、トランペット、フリューゲルホルン、トロンボーン

 第二次世界大戦後、人手と材料不足で一時的に生産が落ちる。チューニングクルークのU字の幅が更に広くなる。また2本支柱の楽器も作られ始める。




Early Mt.Vernon Bach

 
1953 - 1956
Early Mt.Vernon


Serial Numbers: 12,615 - 16,000

Brand names: Stradivarius, Mercury, Minerva, Mercedes
商品:マウスピース、金管楽器

 ニューヨーク市から郊外のマウント・ヴァーノンの50 South MacQuesten Parkwayへ移転。全手作業にして現在のStradivariusの原点となるデザイン。

特徴
・ベル刻印は「Stradivarius Model(ベル番号)」、手彫りの「Vincent Bach」のサイン、「CORPORATION MT.VERNON NEW YORK U.S.A.」
・ベル接合部はボトムシーム
・ベル製法は1ピース製法。
・3番管ストッパーは逆向き。
・巻き返しはフレンチビード。
・2番バルブケーシング左手側にボアサイズとシリアル番号の刻印。「V.BACH Mt.VERNON NY.U.S.A.」と記されている。
・15,000番頃(1956年頃)までのバルブケーシング刻印は、上側シリアル番号、下側ボアサイズ。
・15,000番頃(1956年頃)からはバルブケーシング刻印は、下側シリアル番号、上側ボアサイズ。




Mt.Vernon Bach

 
1956 - 1961


Serial Numbers: 16,000 - 21,000

Brand names: Stradivarius, Mercury, Minerva, Mercedes
商品:マウスピース、金管楽器

 チューニング管の上下の幅が拡大。それに伴い、トランペット全体の寸法が見直される。65ベル、239ベル、72ベルが登場する。




Selmer at Mt.Vernon

 
1961 - 1964


Serial Numbers: 21,000 - 29,999

Brand names: Stradivarius
商品:マウスピース、金管楽器

 1961年にセルマーに買収される。

特徴
・ベル接合部分がサイドシーム。
・ベル製法は1ピース製法。




Early Elkhart Bach

 
1965 - 1974


Serial Numbers: 30,000 - 85,000

Brand names: Stradivarius, Bundy
商品:マウスピース、金管楽器

 モデル180の製造が開始される。チューニング管を1インチ抜いていた設計を、1/2インチに改める(180 Series)。これにより、音のセンターが広くなり、息が入りやすくなったことで、多くの人が他の演奏者と音程を合わせ易くなった。工場がインディアナ州エルクハートに移設され、Bachの図面をもとにした大量生産が始まる。ヴィンセントが完全に引退するまでの時代。

特徴
・67,000番頃(1971年~1972年頃)までのベル彫刻はVincent Bachのサインの下に「CORPORATION」と刻印。
・68,000番頃(1971年~1972年頃)からはベル彫刻はVincent Bachのサインの下に「®」と刻印、Vincent Bach登録商標化が図られる。
・ベルの厚みが0.020インチから0.025インチに改められ、それまでのベル(NY-Bach Standard)はライトウェイトベルと呼ばれるようになる。
・ライトウェイトベルには「☆」の刻印が刻まれる。
・ベル巻き返しのワイヤーがスチール製に変わる。
・2番バルブケーシング右手側にボアの刻印。




After Vincent Bach's retirement and death

 
1974 - 1981


Serial Numbers: 85,000 - 200,000

Brand names: Stradivarius
商品:マウスピース、金管楽器

 ヴィンセント引退後のElkhart製Bach。Vincent Bachが亡くなった直後から、楽器の製造における行程の合理化が図られる。

特徴
・140,000頃(1977年頃)からはバルブケーシングが真鍮1ピース構造に合理化。




Semi Early Elkhart Bach

 
1981 - 1991


Serial Numbers: 200,000 - 350,000

Brand names: Stradivarius
商品:マウスピース、金管楽器

 楽器の製造における行程の合理化が一層進む。

特徴
・200,000番頃(1981年頃)より右手小指フィンガーフックの尾が無くなる。
・バルブガイドが金属製から樹脂製に変わる。
・ボアサイズ刻印の位置が、2番バルブケーシング左手側に機械で刻まれる。





Elkhart Bach

 
1991 - 2004


Serial Numbers: 350,000 - 615,997

Brand names: Stradivarius
商品:マウスピース、金管楽器

 生産体制が完全に近代化。従業員の雇用数と保証費用が劇的に増加し、同時に売上は減少する。

特徴
・340,000~350,000番頃よりシリアル番号が2番バルブケーシングの左手側に機械で刻印。




Nwe Elkhart Bach

 
2004 - 2007


Serial Numbers: 615,998 - 646,012

Brand names: Stradivarius
商品:マウスピース、金管楽器

 Conn-Selmer時代。「Vincent Bachトランペットはインディアナ州エルクハートで製造される」という常識が崩れる。
 セルマーがスタンウェイピアノを中心とするUnited Music Instruments(UMI)の資本傘下に入り、同じくUMI資本傘下となったConnと合併し、社名がConn-Selmerとなった。エルクハートで別ブランドの楽器も製造する一方で、オハイオ州イーストレイクで新モデル「182 Stradivarius」の生産が開始される。

特徴
・ベルの彫刻が全てレーザー刻印で自動化。

生産体制の変化
・エルクハート工場で別ブランドの楽器も製造される。
・新シリーズ182 Stradivarius Vincentが、KING やBengeを生産していたオハイオ州イーストレイクで製造開始。
・初心者向けTRシリーズを中国や東南アジアでOEM製造開始。

ストライキ
 2006年4月~2009年7月までストライキが起き、生産数が激減する。6~7本あったVincent Bach製造ラインのうち、1本を除く全てが閉鎖。閉鎖したのは職人が労働者として働く量産組み付けライン。生き残ったのは、社員でプロ対応の楽器・特注品製造をしていた1ラインのみ。




True Bach

 
2007 - Now


Serial Numbers: 646,013 -

Brand names: Stradivarius, Artisan Collection
商品:マウスピース、金管楽器

 2007年、ストライキが続いているConn-Selmerは新たに「True BACH」というキャッチフレーズを掲げる。Bach没後30年を期に、Bachの残した図面をもとにトランペット製作全465工程の見直しが行われた。本来使われるべきでない工作機械が製造ラインにあり、Bach本人の設計からずれてしまっていた。

特徴
・ベル根本のU字が昔の様にスクエアに戻った。

生産体制と新シリーズ
 2009年7月新たな労働者を雇う形でストライキが終了、かつての労働者の1/3が職場に復帰する。復刻モデル含め、Vincent Bach本人の設計で製造する180シリーズに対し、現代の技術者で設計した190シリーズを新たに発表。

190 Series
2010年:Artisan Collection 190
     B管、C管、D/Es管、Es管(Short L bore)、ピッコロトランペット
2013年:LR190B43 "The Big Copper"
2014年:LT1901B "Commercial"














 
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