Heckel und Monke Trompete
 
 20世紀、まだロータリートランペットが日本では珍しかった時代、ロータリートランペットの代名詞はヘッケル( Heckel )とモンケ( Monke )でした。この2つの楽器は対照的な特徴を持っています。Heckelのトランペットはウィーン・フィルやドレスデン国立歌劇場で使用され、音が柔らかく、弦楽器や木管楽器とよく調和しました。一方Monkeのトランペットはベルリン・フィルで使用され、非常に力強く、豊かで大きな音が特徴でした。また20世紀後半になると、Heckelの工房があるDresdenは東ドイツ、Monkeの工房があるKölnは西ドイツに分断されてしまいます。

 20世紀~現在まで、伝統的なロータリートランペットには3つのタイプが存在し、それぞれドレスデンモデル(ヘッケルモデル)、ウィーンモデル(ドレスデンモデルのベルクランツを無くしたもの)、ケルンモデル(ベルリンモデル)と呼ばれています。これらは20世紀に使用されていたドイツ・オーストリアのオーケストラの地域の名前をつけたもので、特にHeckelが使われていたドレスデン・ウィーンと、Monkeが使われていたケルンで楽器の音色が大きく異なっていたことがわかります。近年はどのタイプにも属さないロータリートランペットも登場していますが、依然としてこれら3つのタイプの楽器が多くの製作者によって作られています。HeckelとMonkeのトランペットはどのような歴史を辿ってきたのでしょうか。











Heckelトランペットの歴史


 1970年代まで、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のトランペットセクションはHeckelのトランペットを使っていました。Leonard BernsteinやKarl Böhmが指揮する映像には、Heckelを演奏するウィーン・フィル奏者が映っています。現在Heckelトランペットの名前を聞く事は少なくなりましたが、Heckelはかつてザクセン王国の宮廷楽器製作者の称号を得ていた、由緒正しきトランペット製作者なのです。

 ザクセン王宮やドレスデン国立歌劇場に供給された楽器はドレスデンモデルと呼ばれ、ベルには洋白のクランツがつけられていました。一方でウィーンに供給された楽器はベルにクランツが無く、ウィーンモデルと呼ばれるベルの薄い楽器でした。現在の楽器と比べるとHeckelはボア径が10.9mmと小さく、ベル厚は0.35mmしかありません。ヨーロッパの歌劇場の鉄則として、「オーケストラは歌手よりも大きな音で演奏してはいけない」というものがあります。ウィーン・フィル、つまりはウィーン国立歌劇場で求められたのは、柔らかい音色に加え、木管や弦と共存して響き合う音であり、決して大きな音ではなかったのです。




Johann Adam Heckel
Born : April 13, 1809 in Adolf
Died : April 10, 1866 in Dresden

 Johann Adam Heckelは1809年にMarkneukirchenの隣町、Adolfに木管楽器製作一族の子として生まれました。MarkneukirchenのCarl Gottlob Eschenbachより金管楽器製作を学んだと言われています。彼が生まれた当時はまだ金管楽器の音を変えるバルブが発明されておらず、ナチュラルトランペットやキィトランペットが演奏されていた時代でした。しかし1810年代~1830年代のうちにヨーロッパでは相次いでバルブが発明され、金管楽器の構造はみるみる変化していきました。1824年に初期のロータリーバルブが製造され、1835年にWienのJoseph Felix Riedl ( 1788 - 1837 ) がバルブケーシング内で回転するロータリー式バルブの特許を取得します。その翌年となる1836年、J.A.HeckelはDresdenのNeustadtに金管楽器工房を開業しました。彼の作品は後のDresdenの製作者たちに影響を与えたと言われています。彼は1865年にWilhelm Richard Wagner ( 1813 - 1883 ) 本人から依頼され、歌劇『トリスタンとイゾルデ』のMünchen初演の為に木製トランペットを製作しました。

 彼の作品の特徴の一つに、当時一般的だった真鍮製のベルクランツを採用せず、ニッケル製のベルクランツを用いた点が挙げられます。彼が生きた時代はまだ近代的なトランペットが一般化した時代ではありませんでした。初期の彼の作品にはインヴェンショントランペット(変え管を用いて様々な管の長さに変更できるナチュラルトランペット)等がありますが、時代と共に長管バルブトランペットや短管B管トランペットも製作するようになっていきました。1860年頃までにDresdenやWienのオーケストラではB管ロータリートランペットを使用する奏者が増えていきます。



Friedrich Alwin Heckel

Born : June 8, 1845 in Dresden
Died : 1915?    in Dresden

 Heckelトランペットは2代目のFriedrich Alwin Heckelの時代にBerlinやWienに広まっていきました。地元であるドレスデン宮廷歌劇場の首席トランペット奏者だったEduard Seifert ( 1870 - 1965 ) は、1936年に引退するまでHeckelのトランペットを使用していました。Heckelトランペットの基本的なデザインを確立したのは彼であり、Heckelトランペットの代名詞「F.A.Heckel」は彼の名前に由来します。

 Friedrich Alwin Heckelは父親の下で修業し、父親の死後1866年に工房を引き継ぎました。彼はウィンナバルブの発明者Leopold Uhlmann ( 1806 – 1878 ) の影響を受けつつ独自のスタイルを取り入れ、Heckelトランペットの原型を完成させたのです。1889年には「Königlich Sächsischer Hofinstrumentenmacher Dresden」となりザクセン王宮の為の金管楽器の製作も行っています。F.A.Heckel製作のトランペットには『F.A. Heckel』『KS Hofinstrumentenmacher Dresden』の刻印があり、宮廷へ供給された楽器には王冠も刻まれています。

 彼の特徴は、まだまだ長管F管トランペットが一般的だった時代に短管B管トランペットを多く製作した点です。彼が製作した長管F管トランペットや長管Es管トランペットはかなり少数で、殆ど残されていないのです。彼は少しずつ短いB管へと時代の流れが変わってくのを見て、これからは皆短管トランペットを持つ時代が来ると予想していたのかも知れません。Friedrich Alwinが製作した楽器で残されているものはB管とC管が多く、またEduard Seifertのために当時としては珍しい高G管を製作した記録が残っています。

※ Friedrich Alwin Heckelの正確な死亡年月日がわかっておらず、F.A.Heckel社が設立される直前の1929年まで生きていたのではないか?という説がある。

※ Eduard Friedrich Seifert
Born:Desember 30, 1870 in Connewitz
Died:January 21, 1965 in Dresden
 1887年ライプツィヒ音楽院に入学し、Christian Ferdinand Weinschenk ( 1831 – 1910 ) に師事。 1895年から1896年までケルンのギュルツェニヒ管弦楽団トランペット奏者。1896年から1936年までドレスデン国立歌劇場トランペット奏者。1899からはトランペット教師となり、1950年にドレスデン音楽大学を引退するまで複数の音楽学校・音楽大学でトランペットを教えていた。弟子にHans-Joachim Krumpfer、Wolfgang Stephanらがいる。




Ernst Theodor Alwin Heckel
Born : October 13, 1883 in Dresden
Died : January 20, 1954 in Dresden

 彼の時代にウィーン・フィルのFranz Dengler ( 1890 - 1963 ) がHeckelトランペットを使い始めた事で、ウィーン・フィルにHeckelトランペットが広まりました。1930年代にB管やC管をDresdenを始めとするザクセン州内やWienに大量に供給したことで、Theodor Alwinは「ウィーン・フィル=Heckelトランペット」という20世紀の図式を作り上げます。20世紀前半にウィーン・フィルに納入されたトランペットはその後1970年代まで使用され、ウィーン・フィルの伝統の響きを支えました。彼はB管、C管、D管の他に、父Friedrich AlwinがEduard Seifertのために製作した高G管を3本作ったようです。

 Theodor Alwin Heckelは父親Friedrichの下で修業し、父親の死後?1915年に「F.A.Heckel」の銘で工房を引き継ぎます。1918年(第一次世界大戦の終結)以降ザクセンは王国ではなくなった為、刻印には『Instrumentenmacher Dresden』と刻まれています。1929年9月にはF.A.Heckel社を設立し、工房を法人化しました。しかし第二次世界大戦・ドイツの敗戦により、1944年頃から1947年まで工房を一人で維持しなければならない事態に陥ります。更に1950年頃からは病気のために生産本数が減少し、1954年にTheodor Alwinは喉頭癌により死去します。

 彼のトランペットは父親Friedrich Alwinのものから僅かに改良をを行っているだけで、基本デザインや音色はF.A.Heckelのものを受け継いでいると言われています。1920年代から1950年代、Heckelより素晴らしいロータリートランペットを製作できる人はドイツにはいなかったと言っても過言ではありません。現在Heckelトランペットと言われているものは1920年代のTheodor製作の楽器を指します。またこの時期のHeckelトランペットの寸法やベル形状を、後の多くの製作家が「Heckelモデル」としてコピーしています。

※ Franz Dengler
Born:July 30, 1890 in Karlsbad
Died:November 27, 1963 in Wien
1908年にベルリン宮廷歌劇場でRichard Straussに雇われ、1918年にFranz Schalkによってウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン国立歌劇場)首席奏者に任命された。




Arno Windisch
Born : February 27, 1921 in Klingenthal
Died : July 13, 2010 in Dresden

 Arno WindischはMarkneukirchenで見習いをし、1953年よりHeckel工房で働いていました。1954年のTheodor Alwin Heckelの死後、Theodor夫人によりRichard Gustav Wagner ( 1891 - 1965 ) が工房後継者として指名されました。しかしWagnerは高齢を理由に拒否し、1年工房で働いた若きArno Windischが後継者となりました。

 Windischの製作するトランペットには、1957年頃まで『F.A. Heckel Inh.Arno Windisch』と刻印されていましたが、1958年頃より『A. Windisch』に変わります。彼はドレスデン国立歌劇場とベルリン国立歌劇場に、歌劇『ローエングリン』で使用するトランペットを供給しました。また東ドイツ・オーストリアだけでなく、日本、アメリカ、ヨーロッパ各国に楽器を輸出しました。これにより、20世紀後半には世界中の奏者がウィーン・フィルと同型の楽器を新品で手に入れる事が出来るようになったのです。

 1960年代後半、ウィーン・フィルのHelmut Wobisch ( 1912 - 1980 ) は首席トランペット奏者のWalter SingerをDresdenに派遣し、楽団楽器購入の為にArno WindischのC管を選定させました。しかしSingerは「今までのHeckelとは異なる」という理由から、Arno Windischの楽器を楽団で購入する事を諦めてしまいます。Arno Windischの作品も素晴らしい物だったのですが、ウィーンの奏者が慣れ親しんだオリジナルHeckelとは異なっていたのです。残念ながら、1954年に亡くなったTheodor Alwin Heckelは、1953年から働きだしたArno WindischにHeckelトランペットの全てを話していなかったようです。

 Theodor Alwinはトランペット製作における最後のベル調整や重要な部分を夫妻で行い、工房で働く職人には手伝わせていませんでした。また下請けのベル製造工房を持ち、自身の工房で組み立てる中で最終調整を行っていました。更に国内の主要オーケストラの奏者から来る個々の要求に対しては、プロトタイプの楽器を自身で製造して最終調整まで行っていたようです。

 Windischは1991年末までに製作を辞め、1996年よりBerndt C. Meyerが工房を引き継ぐことになりました。残念ながら現在Berndt C. Meyer工房は楽器製作を打ち切り、修理・カスタマイズ専門の工房として営業しています。かつてはOriginal Heckel・Heckelモデル・Arno Windischの復刻楽器が製作されていました。またOriginal Heckelには『F.A.Heckel gem. Berndt C. Meyer Dresden』と彫刻されています。Windischは2010年にDresdenで亡くなってしまい、正統なHeckel工房のトランペット製作者は途絶えてしまいました。

※ Helmut Wobisch
Born : October 25, 1912 in Wien
Died : February 20, 1980 in Wien
ウィーン大学で哲学と化学を学び、同時にウィーン音楽アカデミーにも通う。1936年にウィーン国立歌劇場の奏者となる。




YAMAHA
 1970年代、ウィーン・フィルでは楽器が老朽化して、機能面でも様々な問題を抱えたHeckelトランペットを使い続ける事が難しい状況でした。しかしArno Windischの楽器が選択肢から外れてしまったため、20世紀前半に制作された楽器を何十年も使い続けなければならない状況が続いていました。他の楽器を選択することは伝統の音を途絶えさせてしまうことになります。1973年に来日したウィーン・フィルは、ヤマハにオリジナルHeckelと同一のトランペットの開発を依頼することになりました。当時は日本の物価や賃金がヨーロッパに対してまだまだ安く、「東洋の後進国にウィーンの伝統の楽器など作れるものか!」と疑問を唱える奏者も少なくなかったようです。

 Heckelトランペットの復刻に着手したヤマハは、次のウィーン・フィル来日までに支柱形状や彫刻に至るまで完全なるHeckelのコピーを作成します。しかし試奏してみると音が微妙に違ったり、日本で試奏して良い感触であってもウィーンに持ち帰ってムジークフェラインで吹くと響き方が異なったりと、開発は困難を極めました。ある時Helmut Wobischが「開発のヒントになるのではないか?」とベルの一部をペンチで切り取り、日本に置いて帰りました。その材質を調べてみると、ヤマハが使用していた真鍮にはない1%程度の不純物が含まれていたのです。1930年代のドイツでは、銅と亜鉛の合金を作成する際に不純物が入ってしまっていたのです。この事実を突き止めたヤマハは不純物をわざと混入した真鍮「ヘッケルメタル」を作成し、Heckelの再現楽器の開発を進めました。そしてついに数年の歳月を経て、ヤマハはHeckelの忠実な再現モデルとなるYTR-935(B管)とYTR-945(C管)を開発することに成功したのです。

 ヤマハの功績により、ウィーンの音色の伝統は守られました。1978年、Walter Singer、Josef Pombergerらウィーン・フィルの奏者達はヤマハのトランペットを使い始めたのです。1979年のザルツブルグ音楽祭では、カラヤンが指揮する歌劇『アイーダ』でヤマハのファンファーレトランペットYTR-945Fが12本使用されています。リハーサル中、トランペットの音を聞いたカラヤンは老朽化してヘタった楽器と明らかに異なる音を聴き、「そのトランペットは?」と質問しました。楽団員が「日本のヤマハです」と答えると「素晴らしい」と褒めたたえたようです。ウィーン・フィルのトランペット開発の後、ヤマハはオーボエ、ホルン、ファゴットなどでもウィーン仕様の楽器を開発し、ウィーン・フィルから感謝状を贈られています。

 開発から十数年、YTR-935・YTR-945は不純物で炉が汚れるという理由で1991年に廃版となってしまいました。ヤマハのロータリートランペットはモデルチェンジし、MonkeをモデルにしたYTR-936・YTR-946が発売されるようになります。ウィーン・フィルではJosef Pombergerが楽団員にLechnerトランペットを紹介し、1990年代頃からMartin Lechnerの楽器が使用されるようになりました。また、WindischやBerndt C. Meyerの楽器を使用しているプロオーケストラの奏者は現在まず見かけません。Heckelトランペットは取り戻せない20世紀の歴史の一部となってしまいました。



YAMAHA YTR-945
外観は完全なHeckelのコピーである。



Heckelの特徴である支柱形状を完全に再現している。


ロータリー裏蓋の彫刻も再現されている。




ウィーン・フィル御用達のLechner C管
Heckel、YAMAHAの後、ウィーン・フィルトランペット
セクションの代名詞となった。







Heckel Windisch トランペットの仕様

調 仕様
B Original Heckel
ベル:127mm  ベル厚:0.35mm
ボア径:10.9mm  洋白クランツ付


Wiener Art
ベル:127mm  ベル厚:0.35mm
ボア径:10.9mm  クランツなし


Heckel Model
ベル:127mm  ベル厚:0.4mm
ボア径:11.0mm  洋白クランツ付


Arno Widisch
ベル:130mm  ベル厚:0.35mm
ボア径:11.2mm  洋白クランツ付


C Original Heckel
ベル:127mm  ベル厚:0.35mm
ボア径:10.9mm  洋白クランツ付


Wiener Art
ベル:127mm  ベル厚:0.35mm
ボア径:10.9mm  クランツなし


Heckel Model
ベル:127mm  ベル厚:0.4mm
ボア径:11.0mm  洋白クランツ付


Arno Windisch
ベル:130mm  ベル厚:0.35mm
ボア径:11.2mm  洋白クランツ付


D Original Heckel
ベル:124mm  ベル厚:0.35mm
ボア径:10.9mm  洋白クランツ付

Heckel Model
ベル:124mm  ベル厚:0.4mm
ボア径:11.0mm  洋白クランツ付

Es Original Heckel
ベル:124mm  ベル厚:0.35mm
ボア径:10.9mm  洋白クランツ付

Heckel Model
ベル:124mm  ベル厚:0.4mm
ボア径:11.0mm  洋白クランツ付


材質はゴールドブラス。











Monkeトランペットの歴史


 20世紀のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、Kölnに工房を構えるMonkeのトランペットを使用していました。MonkeのB管で演奏する事はドイツの伝統とされ、入団試験に「MonkeのB管で演奏する」という課題があったほどです。現在でもMonkeの楽器は多くの人に愛用されています。創業者のJosef Monkeは、1882年にドイツのElberfeld(現在のWuppertal)に生まれ、1922年にKölnで工房を開きました。




Josef Monke
Born : February 18, 1882 in Elberfeld
Died : November 17, 1965 in Köln

 Josef Monkeは1882年2月18日にドイツ帝国のElberfeldに生まれました。1896年にLeopold Mitsching工房に弟子入りし、トランペット制作の修行を開始します。1900年からは旅職人(Wanderschaft、工房を渡り歩き修行の旅をする当時の慣習)となり、まずはDanzigのEugen Kurnoth(Knoth)工房を訪ねました。翌年1901年~1902年まではBerlinのC.W.Moritz工房で、1902年~1904年はMainzのMax Endersの下で修業し、Elberfeld近郊のKölnに戻ってきます。弟子入りから8年、旅職人4年、修行を終えたMonkeはLeopold August Schmidtの工房に就職し、故郷に近いKölnで数年間働いていました。

 1911年から1年間、Monkeは再びKölnから離れます。彼はMainzの隣町にあるWiesbadenに向かいFritz Wernerの工房を訪ねました。偶然が重なり、この時Wiesbadenでヨーロッパ巡業中のVincent Bachと出会っています。1年間の修行を終え、1912年に再びLeopold August Schmidtの工房に戻ってきました。

 ベルが大きく、力強い音が特徴のケルンモデルの原点は、Josef Monkeが働いていたL.A.Schmidtの工房と言われています。この工房の出発点は1812年からKoblenzで楽器製作者をしていたLeopold August (Mathias) Schröderが、1822年に工房をKölnに移したことから始まります。1848年にFriedrich Adolf Schmidt ( 1827 - 1893 ) が工房を引き継ぎ、ケルンモデルのトランペットの原型を完成させました。1893年にFriedrich Adolfが亡くなると、息子のLeopold August Schmidt ( 1855 - 1921 ) が工房を引き継ぎました。Schmidt家は金管楽器製作者の家系であり、Leopold Augustの兄にあたるCarl Friedrich Schmidt ( 1852 - 1924 ) は、現在使用されているロータリーバルブの軸の特許を1880年に取得していることで有名です。

 1921年にLeopold August Schmidtが亡くなると、夫人のHeleneが工房のオーナーになりました。Monkeは独立を決め、1922年2月28日にKölnでJosef Monke工房を開業します。Monkeが働いてたSchmidt工房は1938年にホルンで有名なGebruder Alexander社に売却されました。Vincent Bachマウスピースの7番バックボアの「Schmidt Style」は、このL.A.Schmidtのマウスピースのバックボアのコピーですです。1958年、Monkeの工房はKörner Str.48-50に移転し、現在に至っています。1965年11月17日、Josef MonkeはKölnにてその生涯を閉じました。







 Monkeの工房には10名以上の職人が働いていたようです。Monkeの彫刻は1955年頃までベルの部分に『Verfertigt von Jos. Monke in Köln a/Rh.』と刻まれていました。1956年頃からは弟子のHermann Josef Helmichに世代交代し『Angefertigt von Jos. Monke in Köln a/Rh』と刻まれるようになります。Josef Monkeには息子Wilhelm Monke ( 1913 - 1986 ) と娘Liselotte Monke ( 1923 - 2015 ) がいました。Wilhelmは父の工房を継がず、独立してWilhelm Monkeトランペット工房を設立します。1965年に初代Monkeが亡くなると、娘のLiselotte MonkeがJosef Monke GmbHの社長となりました。1985年頃になるとベルの彫刻は無くなり、リードパイプに彫刻が刻まれるようになります。そして1997年11月1日よりStephan Krahforst ( 1963 - ) が工房を引き継ぎ、彫刻は再びベルに刻まれるようになりました。

 Monkeトランペットの最大の魅力は、大きなベルから奏でられる力強い音です。20世紀、Herbert von Karajanが指揮するベルリン・フィルのトランペットセクションの音は、太く、豊かで、大きく、唯一無二の存在感を誇ってました。楽器のボアも大きく(ベルリンモデルはベルリン・フィルの要求に合わせ、更にボアが大きい)、ベルはHeckelよりもずっと分厚い真鍮が用いられていました。その為、Monkeの楽器は演奏するのに体力を要すことでも有名でした。B管を使う事はドイツの伝統で、1970年代頃まではベルリン・フィルもMonkeのB管を使用していましたが、1980年代頃から首席トランペット奏者のKonradin GrothとMartin KrezerはLechnerやヤマハのC管を使用するようになりました。現在ベルリン・フィルの奏者はSchagerl、Lechner、Dowidsなどの楽器を使用しています。しかし、B管に関しては依然としてMonkeに人気があります。またベルリンのみならず、ドイツ国内、世界中で多くの人がMonkeのトランペットを愛用しています。





Monke トランペットの仕様

調 仕様
標準モデル
B MB 113 GK
ベル:138mm  ベル厚:0.45-0.50mm
ボア径:11.25mm


MB 114 GK Berliner Modell
ベル:138mm  ベル厚:0.45-0.50mm
ボア径:11.40mm


MB 110 GH Heckel Modell
ベル:138mm  ベル厚:0.45-0.50mm
ボア径:11.0mm


C MC 114 GK
ベル:133mm  ベル厚:0.45-0.50mm
ボア径:11.28mm


MC 110 GK
ベル:133mm  ベル厚:0.45-0.50mm
ボア径:11.00mm


MC 113 GK Modell Läubin Berlin-New York
ベル:133mm  ベル厚:0.45-0.50mm
ボア径:11.25mm


D MD 113 GK
ベル:125mm  ベル厚:0.45-0.50mm
ボア径:11.25mm

MD 110 GK
ベル:125mm  ベル厚:0.45-0.50mm
ボア径:11.00mm

Es MES 113 GK
ベル:125mm  ベル厚:0.45-0.50mm
ボア径:11.25mm

MES 110 GK
ベル:125mm  ベル厚:0.44-0.50mm
ボア径:11.00mm

スペシャルモデル
B MB 113 GHL Modell Läubin
ベル:135mm  ベル厚:0.45-0.50mm
ボア径:11.25mm


MB 128 SH Model Herseth Chicago
ベル:138mm  ベル厚:0.45-0.50mm
ボア径:11.28mm  イエローブラス・洋白


MB 128 ST Modell Tasa Frankfurt
ベル:138mm  ベル厚:0.45-0.50mm
ボア径:11.28mm


C MC 113 SA Modell Amerika
ベル:135mm  ベル厚:0.45-0.50mm
ボア径:11.25mm  イエローブラス・洋白


MC 128 SH Model Herseth Chicago
ベル:138mm  ベル厚:0.45-0.50mm
ボア径:11.28mm  イエローブラス・洋白


MC 128 ST Modell Tasa Frankfurt
ベル:138mm  ベル厚:0.45-0.50mm
ボア径:11.28mm  イエローブラス・洋白




材質はゴールドブラス、クランツはオプションで装着可能。
リードパイプは複数から選べる。






 インターネットの無い20世紀、ウィーン・ベルリンに限らず、イタリア、フランス、イギリス、ソ連、北米などのオーケストラの音は個性にあふれていました。そして、その地方の伝統の音が伝統の楽器と共に伝承された時代だったのです。方言の様に個性的でアクの強い演奏は、伝説として語り継がれました。現在ではインターネットによって、地球の反対側の情報が瞬時に共有されるようになり、YouTube等でコンサートの様子がいつでも観られるようになりました。また今日のオーケストラの音や楽器は、よりインターナショナルな方向へと向かっています。それはある意味とても良い事として捉えるべきでしょう。しかし20世紀の伝統が、どこかで途絶えてしまうのは少し寂しい気がします。18世紀の古楽オーケストラがあるように、20世紀のスタイルもこれからオーケストラの趣向の一つとなって残されていく事を願います。


















番外編
Wanger家とWilhelm Monke


 1954年にTheodor Alwin Heckelが亡くなると、後継者として指名されたのは62歳のRichard Gustav Wagnerでした。また彼の父Gustav Adorf Wagnerも、14歳の頃にFriedrich Alwin Heckelに弟子入りした人物です。一体どんな人だったのでしょうか?



Gustav Adorf Wagner
Born : March 22, 1865 in Cunewalde
Died : January 20, 1941 in Dresden

 Gustav Adorf Wagnerは1865年にDresden近郊のCunewaldeに生まれました。彼は1879年にFriedrich Alwin Heckelに弟子入りします。1883年からWanderschaft(旅職人)となり、MainzのGebruder Alexander、KölnのFriedrich Adolf Schmidt、Frankfurt-Oder(Berlinの東70kmにあるポーランドとの国境の町。西部ドイツ大都市のFrankfurt am Mainとは異なる。)のJulius Altrichter等の工房を渡り歩き、1889年にHeckel工房に職人として戻ってきます。1904年にはDresdenのMoritz Eschenbachの工房を買い取ってHeckelから独立しました。1934年まではGustav.A.Wagnerの銘で楽器を製作し、その後息子のRichard Gustavに工房を引き継ぎます。息子に工房を譲った後も楽器製作を続けていましたが、高齢のため1939年に引退しています。

 彼はFriedrich Alwin HeckelがKöniglich Sächsischer Hofinstrumentenmacher Dresdenとなりザクセン王宮へ金管楽器を供給していた時代にHeckel工房で主戦力となっていた職人です。独立後は1910年代にプロイセン王国の複数の軍楽隊に楽団全員分の楽器を製作してます。またベルリン国立歌劇場のJulius Kosleck ( 1825 - 1905 ) やドレスデン宮廷管弦楽団のOtto Friedmann ( 1882 - 1931 ) のためにD管を製作しています。



Richard Gustav Wagner
Born : November 11, 1891 in Dresden
Died : June 12, 1965 in Dresden

 Richard Gustav Wagnerは1930年に父親から工房の指揮権を譲り受け、1934年より自身の名前「Richard G. Wagner」の銘で楽器の製作を開始します。彼はHeckelから進化した新しいタイプの楽器を作り始めていましたが、第二次世界大戦により兵役が発生したため1943年に製作が中断してしまいます。その後1944年のDresden空襲で工房は焼けてしまい、戦後は修理工房として生計を立てることとなります。Richardはそのまま楽器製作を再開することはありませんでした。1954年Theodor Alwin Heckelが亡くなると、未亡人より工房後継者として指名されましたが高齢のため拒否します。Heckel工房は1953年から働いていた若きArno Windischに引き継がれることとなりました。一方Wagnerの工房は、Richardが亡くなった1965年以降弟のKurt Wagner ( 1898 - 1981 ) が引き継ぎました。しかしKurtは楽器を製作したことがほぼ無く、1981年にその生涯を終えるとWagner工房は途絶えてしまいました。














 Jesef Monkeには二人の子供、Wilhelm Monke ( 1913 - 1986 ) とLiselotte Monke ( 1923 - 2015 ) がいました。1965年に初代Monkeが亡くなると、娘のLiselotte MonkeがJosef Monke GmbHの社長となりました。一方Wilhelmは父の工房を継がず、独立してWilhelm Monkeの名で楽器の販売を始めます。



Wilhelm Monke
Born : November 27, 1913 in Köln
Died : August 8, 1986 in Köln

 Wilhelmは父のJosefと折合いがつかず、工房を継ぐのを辞めたようです。彼はジャズが好きであり、ドイツ伝統のオーケストラトランペットを作っていた父と考え方が合いませんでした。20世紀前半にアメリカで発祥したジャズは、ドイツでは当初サブカルチャーとされ、音楽的・文化的退廃とみなされていました。彼はトランペット製作を望んでいましたが、父は楽器の全ての作り方を教えなかったようです。父の工房を継ぐのを断念した彼は、1945年に父の工房の近くに自分の店を持つことにしました。

 Wilhelm Monke自身は楽器を作らず、彼の店で販売されていた楽器はOEM生産によるものでした。彼はオーストリアやチェコスロバキアの工房から、安価なHeckelのコピーを中心としたロータリートランペットを仕入れ、「Wilhelm Monke」と刻印を入れて販売していました。これは現在の大手メーカーや有名マイスターの学生用廉価楽器が中国・台湾・インドネシア等の現地工場で製作されているのと同じです。また彼の店の楽器は楽隊や軽音楽に特化したものが多く販売されていました。彼はピストントランペットやギターをWIMO(WIlhelm MOnke)というブランド名で販売しました(現在ではロータリートランペット製作者のWeberがジャズトランペット奏者だったり、Lechnerの店舗でアコーディオンやギターなどが売っていたりしますが、20世紀中頃としては非常に珍しいことだったのでしょう)。一方で、Wilhelmと父Josefの関係は悪くはなかったと言われています。父の工房を継がない代わりに互いの意思を尊重し、異なるジャンル、異なる商売の形態を認め合っていたのでしょう。Wilhelm Monkeの店はその後息子のFriedrich Wilhelm (Friedhelm) Monkeによって経営が引き継がれ、1994年まで営業していました。またFriedrich Wilhelmの妻であるBrigitteは、Musikhaus Wilhelm Monke GmbHという会社を1980年から1997年までKölnで経営していました。




 
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